雪の轍のレビュー・感想・評価
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今は分からないものは、分からないままでいい。
個人評価:3.7
良心、偽善、悪意。人間しか持ち得ない感情が交差し絡み合い、もつれていく。
パルムドールの本作は高尚すぎて、私には上手くテーマの輪郭を捉えられない。
ただ、分からないものは分からないままでいい。誰かの言葉だ。いつかわかる時がきて、ふとこの映画を思い出す。そういった作品だ。
老境に入る夫婦の何という饒舌。互いに自分の論理を主張して一歩も引かない。
物も言いたくないほど冷え込んだ夫婦なら、互いに無口になってしまうものだろうが、老境に入る男と女の何という饒舌。互いに自分の論理を主張して一歩も引かない。
「自己満足の駄文書き」と罵られた洞窟ホテルの主人と、暇を持て余し「やることもないのか、趣味の一つも持てよ」とばかにされる妻が丁々発止の大激論。書きたくても書けないパソコン前の夫と、すぐ近くのソファーに寝そべって悪態を吐く妻。ものを投げたり、こわしたり、挙げ句の果てに殴ったりはしないところが凄いのだ。
国民性というより無口の裏返しを描くとこうなる、と受け止めたい。「本当はこう言いたいんだ」と。そして葛藤は夫婦間にとどまらないのだ。なにか身につまされる話で切なくなる話ではある。
67回カンヌ国際パルム・ドール大賞・国際映画批評家連盟賞
トルコ、カッパドキアの街並みがとても印象的でした。 原題は「冬眠」...
トルコ、カッパドキアの街並みがとても印象的でした。
原題は「冬眠」という意味らしいですが、邦題「雪の轍」を見て思ったこと。
人間関係で折り合いが見出せないことを表す際に「平行線」という言い方をします。
ただ、平行線は近づきはしないけど遠ざかりもしません。
つまり、適度にいい間隔を保ち続ける、という一面もあるのではないかなと思ったのです。
主人公アイドゥンとその妻ニハルもそんな感じに受け取りました。
適度な距離感を持って結婚生活を送っていた二人が、
劇中に対立し別居になりかけるも、
最後には元の距離感に戻るという、
そんな物語を平行線を想起する「轍」という言葉で表したのではないかと
思ったのでした。
同居するなら愛をくれ
トルコの名勝地カッパドキアでホテル業を営むアイドゥン。実務はヒダーエットに任せ、現在は無名地方紙へ投稿をしている物書きで、その昔舞台俳優をしていたアイドゥンには歳の離れた美人奥様ニハルがいる。父の莫大な遺産を相続して悠々自適の生活を送っているアイドゥンだが、慈善事業にはまっているニハルとは半別居状態、離婚してホテル兼自宅に出戻ってきた妹ネジルとも口論が絶えない…
原題は『Winter Sleep(冬眠)』。チェーホフの『妻』という短編にヒントを得てジェイランが撮った作品らしいが、内容はドストエフスキーの『罪と罰』をかなり意識したストーリーになっている。いわゆる金持ち側の視点から、金を持っている者の罪とは一体何なのかを問うた一風変わった作品だ。このアイドゥン、金への執着はどちらかというと希薄、匿名で大金を寄付している慈善家でもある。にもかかわらず、妹のネジルからは“悪に抗わない”生き方をしろとか、愛妻ニハルからも高潔ゆえに人の良心をふみにじるところがあなたの罪よ、と終始からまれっぱなし。
『罪と罰』の老婆のように高利貸しをしているわけでもなく、名もなき地方紙へ半分趣味で寄稿をしているだけで、報酬や名声を求めているわけでもない。時々宿泊客と他愛ない世間話をして息抜きすることのどこが悪いというのか。家を貸している導師の甥っ子からは車に投石され、その子供を家まで送っていけば家賃を滞納している父親には逆ギレされる。投石のことを謝りにきた導師と甥っ子にどうしてもとキスをせがまれその手を差し出せば子供が気絶。寄稿内容のことで口論となった妹はふてくされて呼んでも部屋から出てこようとしない。おいおい良心と倫理は世の中からなくなっちまったのか。いったい俺が何をしたっていうんだ。アイドゥンが怒るのも無理はない。
世間知らずのニハルはニハルで夫の前で気絶した子供の見舞にいき大金を渡そうとするが、良心の呵責にたえきれなくなった優しい金持奥様の慈悲にすがるほどこちとら落ちぶれちゃいませんぜと、子供の父親にまたまた逆ギレされてしまう。爆発寸前のニハルと距離をおくためイスタンブールへの旅立ちを決めたアイドゥンだったが、友人宅の農家に立ち寄り、ニハルの慈善事業を手伝う教師と口論となる。良心とは強者を黙らせるために編み出された臆病者の言葉だと教師に指摘を受けたアイドゥンは、朝令暮改ですぐに無為に生きるようになるさと全く取り合わない。
結局同じ狢であったニハルが住むホテルに舞い戻り、雪の降るカッパドキアの“穴”に引きこもり執筆に没頭するアイドゥンだったが、もしかしたら弱きもの、小さきものへむける眼差しに多少の変化が生じたのかもしれない。しかし、どんな施しをしようが、施しを受ける側に持てる者へのルサンチマンがある以上、あらぬ誤解が生じるのはいかんともしがたい気がするのだ。なぜ金持ちだけがサクリファイス的生き方を求められなければならないのだろうか。私に言わせればそれはまったくの本末転倒、人を信じていない人間だからこそアイドゥンは金持ちになれたのである。金を持っていること自体は罪でもなんでもない、人間を信じられないこと、それがアイドゥンいや人類全体の罪だとすれば、何をしてあげようと人から信じてもらえないこと、それが罰なのである。
ハミッドの気持ちに同情しちゃう!
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の最後の三本の映画を最近観たが複雑な構成の中にいくつかテーマがあるような気がする。しかし、これらのテーマや人物を全部追いながら約三時間観ることは疲れる。雪の轍というこの映画は主人公エイデンとエイデンの親の代から家を借りていて今家賃が何ヶ月も払えない状態のイスマイルの家族の関係、特にイマン(イスラム教を伝える人)を仕事にしているのイスマルの弟ハミッド(甥のイリアスが車の窓ガラスを割り、それを弁償しようとする人)との関係に焦点を置いて考えてみた。そして、主人公エイデンはアル中の伴侶と離婚して居候をしている姉(妹?)や妻や、他の登場人物とも、問題を抱えているが彼の性格にもよるものだと思う。
それは、このテーマで、結局、人はそれぞれ価値観が違うが、その違いをどう歩み寄るかで、コミュニティーや家族と生きていけるかだと思う。実はそう勝手に思うだけであくまで自分の意見だ。
イスマイルの子供イリアスは石を投げてエイデンの車の窓ガラスを割って逃げるが追われて水の中に落ちてしまいずぶ濡れになってしまい、風邪をひくといけないのでエイデンたちがイリアスをうちまで送った。イリアスの父は獄中生活をしたためシャバに出てからも仕事が 得られず酒浸りで偏屈男のなってしまった。エイデンたちをイリアスのずぶ濡れの体を心配しているから、第一声に『川に落ちた』ことを伝えるっが、イスマイルはすぐ弁償しろということだと勘ぐってしまう。家賃を滞納していて冷蔵庫テレビも取り上げられていて追い立て人が入って屈辱を与えている家族にガラス代をすぐ弁償しろとは言いにくいのかもしれない。その後、イスマイルの弟ハミッドは話し合って一部を少しづつ弁償するため、エイデンの裕福な家を訪れる。エイデンは彼の名前をまともに覚えていないようだし、彼の汚れている靴を足でよける。彼が遠くから歩いて冬のぬかる道を来たなんて全く想像もしていないようだ。二人の会話も、ガラス代70リラだったと思うけど、大したことないよという。ハミッドのもって来ているお金では足りないことはハミッドの表情で明らかに伺える。そしてよく覚えていないので電話をかけて実際の値段(170 リラ)を確かめるが、これはハミッドにとって、驚愕の値段。でもそんなものだよとエイデン。エイデンの言葉や態度からではハミッドの心境を全く理解していないようだ。ハミッド一人の給料で、家族五人を養っていて家賃を滞納しているのに家主のエイデンは何一つ、わかってあげようともとしないしどうでもいいという態度で、そして、もう私のところに来ないでくれ、任せているものと直接話してくれと。ハミッドに出されたクッキーやティーなんてエイデンにとって日常茶飯事だろうが、ハミッドのクッキーをすぐさま食べる様子から察すると、めったに口にしているものではないと感じる。自分と生活レベルが雲泥の差のともいえるハミッドが遠いところから徒歩で、甥の行為の代償を直接謝まりに来て、お金を渡そうとしているのが(高金額すぎて期待はずれ)いたたまれなく、また、ハミッドのおどおどしている目の表情からそれが伺えるのがいたたまれなかった。エイデンはトルコの99%はモスリムだというが、モスリム は神を愛しているなら秩序を保ち、神に好かれるように、綺麗にして生きるべきだと(うまくいえてない)。神の子なのだから、コミュニティーのモデルになるべきだともいって、ハミッドの家族のような生活の人たちはモスリム の風上にも置けなないと思っているようだ。
それにもまして、エイデンは子供の頃電気がない生活をしていたと。こういう生活の経験者が同じような境遇の人の気持ちがわからないというのは、移民なのに、今の移民問題に理解を示さない人と同じだ。エイデンの無頓着な態度と心のなさに、私自身がハミッドに労いの声をかけたくなった。
姉(妹?)からの言葉だと思うが、3つ大事なことをエイデンに言った。これは私個人にも必要な言葉だと思い、自分も考え直さなければいけないと思った。
1)人そのままのを受け入れなさい 2)人をジャッジ(判断)するな。3)もっと柔軟になれ
ところでこの映画の舞台は広大な自然の中、カッパドキアであるが、この辺はオマーシャリフが『Monsieur Ibrahim』という映画のためきたところだとエイデンかだれかがは言っていた。そして、その映画の演じることは全て「正直」についてだと。
最後に、ジェイラン監督の観ていない映画作品、「読まれなかった小説」『昔々、アナトリアで 』そして 「雪の轍ウィンタースリープ」を観た。長編で各3時間という時間をとって映画を見ることは毎日の生活に置いて大変だった。雪の轍の最後の方の会話、エイデンとエイデンの友達と小学校の先生との会話に集中できなかったし、これは5日間ぐらいかけてみた映画なのでよく理解していないと思うし記憶も薄れたと思う。残念だが、疲れてもう一度見る気にはなれない。また、来年の真夏にみるわ。
人間の本質
資産家のホテルオーナーと彼を取り巻く人間模様。口論が絶えない家庭。対話のシーンが長く退屈な場面がある。映像の緩急なくひたすら議論。読書しているような気分になる。退屈しのぎに獲物を狙う視線にヒリヒリする。心を満たすなにかをつくれというのは名言。退屈は恐ろしい。人間にロクな考えをさせない。賃借り人がお金を燃やしたシーン。貸主の奥さんから援助として見返りは不要のお金を受け取りコンロの焚き火に捨てて燃やした。いくら金に困っていても気に食わないやつからは受け取りたくない自尊心を感じた。
圧倒されました
もちろん人を選びますが、観客の感情移入を大きく二転三転させる力強さがあると思いました。シーン毎にテーマの変わるそれぞれの会話劇が、ある種の繋がりを感じさせるためです。
脚本や舞台設定の関係上、色彩豊かな映像という訳ではありませんが、セットの配置も時折見せる手堅いフレーム(上手だなぁって)の収め方も見所だと思います。
私たちは同じ轍を前にしてるのに、良心や信念、お金だったり義理だったりが絡むと、戻れなければ交わることもない___そんな平凡な虚しさにブラインドをかけずに表現していると感じました。複雑そうな会話が多いですが、ほとんどの方がこの作品の登場人物とリンクする部分がありそうです。
長い映画なので飽きてしまう方も居そうですが、それぞれが大きなディティールで構成されてるので、短編集を観てると思えば大丈夫!...たぶん!
良心倫理を振りかざす暴君の心変わりを描く映画
初老男性のアイドゥンは、若い後妻ニハル、辛辣な自身の妹ネジラとともに、両親が残したホテルで暮らしている。
彼はかつて演劇の道を志し、それ相応の名声も得ていたが、いまは引退して地元紙にコラムなどを書いて、悠々自適の生活を送っている。
ある日、下男とともに、店子のイスマール家に滞納している賃貸料の催促に出かけた帰り、イスマールの幼い息子から自動車に投石され、窓を割られるという事件に出くわす・・・というところから映画は始まる。
これは終盤への布石で、映画は、アイドゥンと若い後妻ニハル、妹ネジラの確執を描いていくのだけれど、意外とつまらない。
映画中で他の二人から指摘されるように、アイドゥンはなにかと「良心、倫理、高潔、倫理」ということ言葉を持ち出すが、彼にとっては扁額の言葉にすぎず、他の人々のことなど判っちゃいない。
他人からみれば、彼は「暴君」に他ならない。
ただし、自分は正しいと思っている上に、傍若無人な振る舞いをするわけではないから始末が悪い。
まぁいわば,簡単にいうと、「無知の知」ならぬ「無知の無知」の男の心変わりを描いた映画というわけで、目新しいところはない。
それを、ヌリ・ビルゲ・ジェイランは、過剰なほどの台詞で物語を進めていく。
とにかく、うるさい。
過ぎたるはなんとか、で過剰な台詞の応酬により、しばしば数秒ほど意識不能に堕ちってしまった。
うーむ、こんなハナシをカッパドキアでみせられてもなぁ、というのが正直なところ。
その上、重要な人物である妹ネジラは途中から登場しないし、妻ニハルの物語が動き出すのは1時間40分を過ぎてから。
さらに、終盤で主人公アイドゥンが心変わりするのだけれど、そのキッカケはわかりづらい。
観客側は、それと同時に描かれる妻ニハルの弱者に対する余計なおせっかいが描かれており、ふたりは同じ穴の貉ということは理解できるが、劇中では、互いに互いの行動は知る由もない。
それを、突然のアイドゥンのモノローグで収斂しようとするのは無理がある。
ということで、台詞のところどころなど「寸鉄釘をさす」感はあるものの、全体としては冗長な感じは否めず、90分ぐらいで語るか、セリフを減らして映像で3時間魅せてくれないと、この手の映画は個人的には評価しない。
プレイヤー
プレイヤーにならなければどこにも行けないって単純な話の筋はいつの間にか些細な違いになって良心とか尊厳とか追い求める普遍的な物事についても遠くに流れていって小さい村の小さな人間関係の中の人一人一人の違いが他者他者らしくイメージに焼き付けられる感じがしました。「俺の腹は独立を宣言した」に救いを感じました。
人にはオススメ出来ない良作。
圧倒、その一言に尽きる一本。
基本一対一の会話劇、ただそれが196分のボリュームという驚き。
独善的で人の話は聞かない女の言い分はへし折られ。
理論的に事を図ろうと進める男の言い分はへし折られ。
果たしてその後に何が残るのか…は観た人間にしか分からない。
し、分からないかも知れない。
「会話というツール」を使う事を許された人間の、故になんともどかしく愚かしいことか。
少なくとも観終えた自分の胸には、劇中のような雪景色が残った。
いろいろと考えさせられる力作だが、人には勧められない作品。
3時間15分はどうやっても長すぎるよ。
共感できない諍い
登場人物の背景を知り、心情に共感できてない状態で、それぞれが自己主張を繰り返す。舞台演劇のように、膨大なせりふでの諍い場面が、延々と続くから、精神的に疲れます。
日本人旅行客役の村尾さんの場面だけ、ほんの少し気が休まり、ほっとしました。
映像として好きな場面もあるし、もっと話したい場面もありますが、それは映画を見た方と語れたらと思います。
カッパドキアのホテルが良い
3時間の長尺で繰り広げられる、夫婦や人種、所得階層間など様々な関係性での人間模様のオンパレード。他のレビューにもあった通り一切の音楽がないこともあり、2〜3回はウトウトしましたがそれでも深い余韻が残るのは何故でしょう。主人公はどうして他人のことを理解しようとしないのか、「人の振り見て我が振り直せ」と思いながら観ました。カンヌではどうしてこうも説教臭く、万人受けしない映画がグランプリを取るのでしょうかね。
荒れ野を野生馬が駆け、アールヌーボのインテリアに包まれ、シューベルトが奏でられ、パソコンのキーが鳴る。
カッパドキアという異形の居住空間、窓から差し込む柔らかな光、、あるいは雪が舞う風景、人間の世界はつくづく美しいと思う。そして、その世界はどこまでも悲しい。ひと独りは人を求め、人と抗い、人と和し、そしてまた独り生きる。
トルコのアナトリアは6000年の人間の住処。映画はしかし、決して大仰に歴史を政治を語るわけではない。荒れ野を野生馬が駆け、アールヌーボのインテリアに包まれ、シューベルトが奏でられ、パソコンのキーが鳴る。
ルイ・デリ・ジェイラン監督は映画賞連続受賞だ。アテネ・フランセで彼の全作品を上映する映画祭があるという、是非見てみたい。
心に沁みるシューベルト
カッパドキアの洞窟ホテルのオーナーである元舞台俳優のアイドゥンとその若い妻、そして出戻りの妹の三者が、互いの生き方を批判しあう会話が映画の中心。その会話劇が繰り広げられる室内撮影の陰影とアナトリアの風土を美しく切り取るロングショットの対比が素晴らしい。
この三者共に批評は的確に相手の欺瞞をとらえる。そして、それがことごとく観客自身のことを突いてくるのだ。例えは、アイドゥンの文筆作業を批判する妹の言葉はこちらの心に突き刺さる。「浅はかな知識で偉そうに、、、」とは、いまこうして映画の感想など書いている自分自身への批判に聞こえて耳が痛い。三時間余りこのように自分自身への批評を耳にしなければならない観客は疲労困憊する。
登場人物たちは、相手のことは批評できても、自分自身のことはどうにもできない。自己欺瞞に気づいていながらも、そのような自身の生き方を変えることはできずにいる。
いかなる政治的な立場から誰かへの批判を述べても、こちら側の欺瞞や傲慢さをすぐさま指摘されてしまうという、極めて現代的な問題が閉ざされた家族の会話を通して提示されている。
人から与えられた金や善意に価値の違いなどあるはずがないという観念自体が、自分の傲慢さに過ぎないことに気づかされていく。
今を生きることのしんどさをあぶりだすことに成功した作品。
難解だし、地味な作品である。このように疲れる現代という時代にこそ、シューベルトのピアノが心に沁みる。そのことだけは、どんな見方をした観客にも伝わったのではないか。
イスラム色を排して勝ち得た普遍性。
冒頭部分のエピソードと結末部分がうまくつながっていたので、一見、映画としてはまとまっているように見えますが、上映開始後、2時間近く、これでもかと言わんばかりに延々と続く、兄と妹、あるいは夫と妻、(ここでは、兄と夫は同一人物で、家主でもあり、文筆業にも手を染めています。本編の主人公です)のどうでもいい不毛な議論には些か白けました。この冗漫な部分、どうにかならなかったのでしょうか。科白だけで説明しては映画の価値が下がるというものです。
私にとっては久しぶりのトルコ映画(多分、「路」、「群れ」以来)であったので、他の国にはないトルコ的なものを期待していたのですが、実際には、イスラム色を排した、日本や欧州、北米などと共通した話題を取り扱った映画になっていました。逆に言えばそれだけ、普遍性がある、と言えるのかもしれませんが・・・。その点がなんとも、もの足りなかったです。
強いて言えば、ガウディの建築物にも似たカッパドキアの風景がトルコ的な「何か」を訴えていたのかもしれませんが、私にとっては、結局のところ、取ってつけたようなものでした。
期待も大きかっただけに、この薄味の内容には失望しました。また、無駄に長いな、とも感じました。
美しさから引き立てられる汚れたもの、あるいは汚れたものから引き立てられる美しさ
かなりの長尺で、しかも終始澱んだ内容で、どっと疲れました。
美しいカッパドキアの風景と、それと相反するかのような人間のエゴとが交錯することで、いつの間にか引き込まれていく─反駁するものに決して安易な和解的解決策・演出を織り込まず、心と心が断裂されっぱなしで淡々と展開されるそのストーリーには感嘆させられるが、見ているこちらも救済されるところが少ないので、非常に疲れます。
まるでテオ・ゲンゲロプロスのような映画だと思います。カット数が多いところが大きな違いで、美しい背景と人間の醜態の対比といったものは、まさにアンゲロプロス。ヨーロッパではこういう映画が評価されるのかもしれない。
心して観るべし!
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