「欲望のゲームと麻雀の類似性に注目すると、映画の面白さが増す」カップルズ 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
欲望のゲームと麻雀の類似性に注目すると、映画の面白さが増す
原題は「麻雀」だが、エドワード・ヤン監督はもちろん麻雀を題材に映画を作ったわけではない。1996年、活況に沸く台北。外資とともに一獲千金を狙う外国人も流れ込む喧噪の街で、他者を出し抜いてでも金を稼ぎ、成り上がって勝者になることを望む人々を、麻雀のプレイヤーに見立てるシニカルな視点がヤン監督にこの題を選ばせたのではないか。
言葉巧みに人を操ろうとするリーダー格のレッドフィッシュ(サッカーの久保建英選手にちょい似)、若きジゴロのホンコン、インチキ占い師のトゥースペイストに、新入りのルンルンを合わせた4人組。彼らはこの欲望のゲームにおける集合的プレイヤーとして、ある程度成功した他の登場人物らと駆け引きし、時には詐欺の手口で、また時には売春婦候補の女性の斡旋で、荒稼ぎしようともくろむ。美容院オーナーが駐車したベンツに当て逃げしておき、「車で災いが起きる」との予言が当たったと信じ込ませるのは、たとえるなら自分の欲しい牌を事前に山に仕込んでおき、配牌とツモ牌の“でっち上げた奇跡”で上がって高い点数をせしめる「積み込み」のイカサマだろうか。
卓を囲むプレイヤーたちで持ち点をやり取りする麻雀が、誰かが点数を得ると同じ点数を他者が失うゼロサムゲームであることも、ヤン監督の見立てに活かされている。若き4人組の“仕事”は、新たな価値を創り出す生産的な労働ではなく、持てる者からあの手この手で金を奪い取ろうとする不正なたくらみだ。欲望にまかせて他者から金を奪うだけのゼロサムゲームでは、誰かが勝てば必ずほかの誰かが負ける。このゲームで真の勝者になるためには、他者を蹴落として勝ち続けなければならない。勝ち抜くことを最優先するなら、その過程で大切なもの(家族、仲間、あるいは愛)を失うのも必然だろう。
この映画におけるカップルの多くは流動的だが、例外が2組だけある。1組目の男は欲望のゲームに虚しさを覚え、ゲームから降り、永遠の愛と安らぎを得た。ラストのもう1組のカップルも、ゲームから降りて愛を成就させたように見える。しかしシーンが暗転してエンドクレジットが始まっても、祝福するような明るい音楽は流れず、街の喧騒が残るのみ。2人が街にとどまるなら、やがて欲望の闇に取り込まれてしまうのでは。そんな不穏さを残し、映画は終わる。