「安価な“平和世界”で「正義」は一つの凶器か?一つの希望か?」劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス 平田 一さんの映画レビュー(感想・評価)
安価な“平和世界”で「正義」は一つの凶器か?一つの希望か?
ゲームに最期まで殉じたかったルカダンタのキャラクター像、見捨てられない正義感と獣の本能に委ねた狡噛、そして信じる正義の為に遵奉した朱と(ニコラス・)ウォン。考えてみるとどこを取っても、純粋悪はいなかった。それどころか卑小な悪党、小物キャラは控えめで(見方によってはニコラス・ウォンは悪党風情に分類できるが)、ある意味事態や蒔いた種(=悪)を分かったうえで行動する良くも悪くも自覚をしているキャラばっかりで驚いた。公開初日の鑑賞では正直気付けなかったのに……。
かなり細部を把握してなきゃ、作れない作品でもある。例えばテレンス・マリック映画はハリウッド映画の方程式を逸脱した作品で、観客の経験談で色が変わる映画だった。最新作の『聖杯たちの騎士』もまさにそんな映画で、歩んだ人生経験次第で輪郭は大きく変わる。細部情報は固まってるけど、解釈までは強制しない一種の“委ねる映画”であって、同時に“考察欲求”を刺激する作品でもある。並みいるハリウッドスターたちがこぞって参戦したがるのも同意できる作家であるし、何より題が良いんだと思う。
『PSYCHO∸PASS』がマリック映画に肉薄するとは言わないが、少なくとも“考察欲求”を刺激するのは確かだと思う。例えばニコラス・ウォンにしても、小説版ではセムと見知った関係だと明かされてるし、あれほど可及的速やかに駆逐を完遂したがってるのも、安価ですぐに手に入る“保証済みの平和な世界”、それをさっさと手中にしたいという解釈も十分在り得る。昨今のドナルド・トランプ新大統領の政治政策、アメリカとメキシコ間に壁を設置する案など、今世界は勧善懲悪思考に依存しようとしてる。全員がそうとは言わないけど、多角的視野や思考が享受されつつある世界で、取り残された人間は手軽な証に躍起になって、括りがたい存在や意向を必死に否定する(目を逸らすと言うべきか)。それで得られる安全を取ろうとジタバタ動き続ける、ある意味本作品中の世界へ邁進しつつある傾向だけど、それを悪だの善行だのに落とし込まないところが良い。シビュラがもたらす“平和な世界”は間違いなく事実だから。
朱は自覚した上での信じる正義を行ったし、ニコラス・ウォンも哀れとはいえそこにはドラマが宿っているし、劇場版はより深淵に潜った作品と言って良いかも。『2』といい、ハッキリできない人間の業を描くところはやはりスタッフが緊張感を持ったプロの御陰ゆえか?まあその辺りは分からないけど、そこもいつか考察したいな♪
ちなみに敢えて個人的な不満をここで述べるのなら、須郷さんと雛川君の出番ちょっと少なすぎ!!あと何でEDが「名前のない怪物」なのよ。そこはどうか凛として時雨の「Who What Who What」が良かった……。まあそこだけ不満かな?後は見るのが心配な方、予習としてコッポラの『地獄の黙示録』&キューブリックの『シャイニング』を事前に見れば良いと思うよ。名作って自分で勝手に敷居を上げちゃうんもんだから(苦笑)
追記:東金さん、劇場版へのチョイ役とはいえ参戦おめでと!!