ウィズネイルと僕 : 映画評論・批評
2014年4月22日更新
2014年5月3日より吉祥寺バウスシアターにてロードショー
ひとつの時代の終わりを彩る、濃厚な青春の残り香
本国で根強い人気を誇る"とっておき"のイギリス映画である。87年の制作ながら日本では91年に限定公開されたきりで、なかなか日の目を見る機会がなかった。そんな幻の一作が、東京で長らく愛された映画館のクロージング作品として上映される。消えゆく映画館がこの映画に託した万感の想いを、当のイギリス人たちは知る由もないだろう。
1969年。スウィンギング・ロンドンと呼ばれた黄金期の終わり、ふたりの売れない役者が掃きだめのような部屋で暮らしている。破壊的な性格のウィズネイルと、いつも不安げな"僕"。いくら待っても仕事なんて来ない。そんな日々を酒とドラッグが埋める。やがて「こんなんじゃダメだ!」と思い立った彼らは、ウィズネイルの叔父が持つ田舎のコテージで気分転換を図るのだが・・・。
ブルース・ロビンソン監督の自伝的要素の強い本作は、思いっきり笑えるわけでもなければ、号泣する内容でもない。けれど、見れば見るほどに味わいが増していく。まだ自分が何者でもなかった頃、一緒にいたどうしようもない親友。どうしようもない日々。そんな情景が曇天に覆われ、時にはずぶぬれ、いや泥まみれであるほど、愛おしさを巻き起こしてやまない。なぜだろう。その答えは細部に宿る。印象的なセリフ、俳優の表情、そして69年という時代性が、ひとつの終焉(しゅうえん)へと向かう漠然とした気配として漂う。その憂いの衣をまとうことで、あらゆる瞬間が輝いて見えるのだ。たとえば誰もいない公園で、オオカミの檻を前に語られる「ハムレット」の独白。拍手がわりに雨が降る。空しい。でもこの空しさの中に抱きしめたくなるような人生の真理がある。
鉄球がロンドンの街並を壊す。そうやって青春が終わる。だがウィズネイルという存在は、今なお誰の心にも偏在する精霊となって宙を漂っているかのようだ。映画館の記憶もまた同じ。10年後、20年後、僕らはあの客席で笑って泣いた日々を思い出すだろうか。その瞬間、ウィズネイルの「Tintin(乾杯)」という声が聴こえるだろうか。
(牛津厚信)