「堪能した。そしてあらためて原作の凄さ!!」ソロモンの偽証 後篇・裁判 CBさんの映画レビュー(感想・評価)
堪能した。そしてあらためて原作の凄さ!!
そう言えば俺は、映画は一気観したけれど、原作読んでなかったな。
そこで俺は原作を読んだ。文庫本6冊。10日間かかったが、全編堪能した。
すごい原作だ。中学生が、真実を知るために、学校内で裁判を開くという設定。
「事件」「決意」「法廷」の三部、各2冊。
クリスマスイブの自殺に始まり、さまざまなことが起きる事件。これだけで2冊。
「事件」と「法廷」はわかるけど真ん中の「決意」って何? と最初は思った。
が、読めばわかる必然の章。
「決意」があるからこそ、中学生たちが自分たちで裁判をしようという荒唐無稽な話が、確かな現実になっていく過程。
さすがに「法廷」の前半は読書スピードが少し落ちるが、後半はまた加速していき、見事なエンディングへ。
この内容は、とても2時間の映画には入りきらない。
という訳で映画は前後編なわけだが、それでも入りきる訳がない。
となると最初の関心事は、どこにフォーカスして、何を大胆に省略すらか、だ。
原作で作者が伝えたかったことも非常に多い。
関係した全員のそれぞれの成長は、原作のメインだが、映画で全員は描けない。
いったい誰と誰に絞っているのか。
作者が設定した最大のテーマは、「大出、樹里ふたりの声を、誰かがちゃんと聞いたのか?」 だが、そこは表現されるだろうか?
さらに、さまざまな形で置かれている 「大人による、子供の破壊。親による、我が子の破壊」 というしばしば起こりうる悲劇的環境は描くのか。
自殺、告発状は必須だろうから、森内先生も組み込むとしたら、エンディングへのキーとなる野田健一の事件は、この限られた時間の中で描けるのか。
大出たちと柏木のいざこざはどんな位置に置くのか。
大出家の大事件とそこに関わる者たちは描写されるのか。
原作を読んだ今は、どれを削っても物語が構成されない気すらしてしまうが、一体どんな風に料理されているのか。興味は津々。
さらに原作のエンディング近くでの最終抗弁。野田健一のあの過酷な事件の、あの瞬間の描写は、この尋問のためにあったのか。恐ろしいまでの、原作者の緻密な構成力。これをはたして映画で描けるのか。
神原和彦。彼は、触媒。彼が何かをするわけではなく、彼に触れた相手が、自分で考え始める。そんな役割。
各自の「成長」をこんな風に描けるのは、原作者の底を流れる "愛" なんだろうな。「誰もが、成長する」 という信念と言うか、成長そのものへの愛。
(原作から)「オレは、身の潔白を証明する。そう、決めた。だから、た、た、たのむ」
(原作から)「樹里が発した悲鳴を受け止めるのは、誰だ。今まで誰もやろうとしなかったことをやるのは、誰だ。このあたし、藤野涼子が、やるんだ」(独白)
これが原作の第二部のエンディング。をを、なんと凛々しいことか。第二部の表題が「決意」である理由が、ここでわかり、心に沁み入る。
学校という体制は社会の必要悪なのに、城東三中の先生方にはそれがわからない。
神聖な場所だ、ぐらいに思っている。権力者である自分たちにとって都合のいい、住み心地のいい場所であるだけなのに。
丹野先生とカササギの絵のエピソードは柏木卓也の考えを象徴するもの。
叩かれた藤野涼子、示談にされた増井望。
一方的に暴力に晒された者には、自分が暴力にあったことを訴える権利がある。
母がこちらに立ってくれた涼子、両親が向こうに合意してしまった増井。
その対比で、不当に扱われた者が訴える場が必要だということが、伝わってくる。上手い。
花火師の弁護士が語る、「殺人罪における殺意の有無の話」、これがまたラスト野田健一の最終抗弁に繋がる。
(原作から) 彼がハメられたことを立証するために、彼がそんなことをされても仕方のないワルだったことを、彼自身に認めさせるという荒技をやってのけたのだ
神原くんは、あなたのために、あなたに聞かせるために、あの尋問をやったんだよ
すごい。果たして、映画では描かれるか。
決してみんなの前には出なかった樹里の最後の証言は、映画では描かれるか。
それが、神原への感謝であることが、俺たちに伝わる表現にできている映画だろうか。原作では、他の人に解説させている。
原作では非常に丁寧に描かれ、かつ重要なエピソードとの相似形をとっている、裁判員たちと廷吏。
溝口弥生と倉田まり子が、樹里と松子について語るシーン、
原作でも回収されなかった、空から赤い雪が降りますっていう天気予報みたいなもの。
蒲田教子、俺にもそれ、わかんないよ。教えて!
これらは、果たして映画では描かれたか?
小説冒頭の、情報量の少ない、電話ボックスのシーンが、ラストのキーとなるというこの構成。素晴らしい。
しかし、映画は文字だけではないので見えてしまう。どうするのだろう。原作を踏襲できない。こんなジレンマもあるんだね。
原作を読んでから、すぐに映画を観る。
なかなかないこの楽しみ方。上に書いたように、原作小説が強烈かつ緻密かつ広大なだけに、
映画では、どうデフォルメしているのかが最大の関心事だろうか。
■■■■■■■■
そして、映画を観た。かって映画館で一気観したが、今回は配信で二度めを観た。
(俺は観ても、けっこう忘れちゃうので、初めて観るような感じで二度めを観ることは多い。今回もそうだ。新鮮な気持ち)
初日
1人め・刑事 「調べなかったんですね」
2日め
ふたりめ・須崎校長 「隠したんですね」
3日め
3人め・森内先生 映画では垣内はここで現れる。
4人め・樹里 映画では傍聴人いるんだ。証言は 「見てない。松子に聞いた」 なんだ。反対尋問の前に帰っちゃうんだ。
4日め
5人め・今野弁護士
6人め・大出
7人め・ ・・・
「誰もあなたを捌けない。それじゃあこの裁判の意味がない」
「そんな事は無い。やらなかったら、未来に立ち向かう勇気も出てこない。ここにいるみんながそう。自分の罪は自分で背負っていくしかない」
閉廷。
終わった。堪能した。
原作の広がりと深さを10とすれば、映画は深さは5くらいにして、広さを10に限りなく近づけようとしている感じだった。
まず、この話が成立するかどうかの最大の関門は、「中学生が裁判をしようと思う」 という動機がすんなりこちらに入ってくるか否かだ。
だから原作には、第二部「決意」のヤマのひとつ、野田健一のエピソードがある。
映画では、これを思い切って切り落としていた。
かわって、(原作にもある) 藤野涼子のエピソードを拡大強調して、それに置き換えていた。なるほどね。
「(私に)あの時勇気があれば、マツコは死ななかったかもしれない」
線路を見つめるシーン、柏木卓也から激しく責め咎められるシーンを加えることで、それなりにつながっていたように思う。
「中学生が、真相を知るために校内で裁判をしよう」とまでに思う動機を、「私は人を見殺しにした」という、主人公の深い後悔に委ねてストーリーを成り立たせている。それは偉いと思う。
映画は主題を、この藤野涼子のセリフに象徴される、「勇気を出せ」 と言うメッセージにしたんだと思う。
個人的には、この話をそこに帰着させるのは、受け取る方にとっては重すぎるように思うが、それによって1つの映画として成り立っていることはたしかだ。その点は、見事なものだ。
さて、映画をご覧になったみなさん。
原作の映画もラストで野田健一は反対尋問をする。その背景となる野田健一の過去の壮絶なエピソードは、映画では時間的に入るわけがないので、ばっさり削られているのですが、ぜひ原作を読んでほしい。
この素晴らしい映画よりさらに2段階ほど深い原作をぜひ一度読んでください。
野田健一について、映画では登場人物のひとりに過ぎなかったと感じられていると思いますが、読めばその位置の重要さを始め、きっと映画とは別の世界を楽しめると思います!
おまけ
原作は、廷吏の山崎 晋吾をはじめ、登場した全員にそれぞれの感想を抱けること間違いなしの、素晴らしい群像劇です。
ほんとうに、ひとりひとり書き込んでるんだなあ、と感心しました。
話全体は、冒頭に書いたように、重く深い話なんですが、作者の、全員を描き分けるこの技術で、多少は心が安らぎます。
以上、長文にて失礼しました。
CBさん、共感とコメントどうもありがとうございます。
原作の単行本を全三部作とも中古で購入済みだったことを思い出しました。今、手元にある本を見たら定価が各本体1800円(税別)もするんですね。
読み応えがありそうです。これ読んだら、CBさんみたいに上手な文章が書けそうな氣がして楽しみでもあります。