「人間の男女の姿を蜘蛛のオスとメスの関係になぞらえたシニカルな作品」複製された男 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
人間の男女の姿を蜘蛛のオスとメスの関係になぞらえたシニカルな作品
これは登場人物の顔ぶれや彼らの行動を見ていると、ナゾナゾのような映画である。
いろいろ解釈の幅があり、ジェイク・ギレンホール演じるアダムとアンソニーが、実は同じ人間の別人格のようにも見えるし、別人のようにも見える。どちらかに決めつけようとすると、どこかに無理が生じる。
例えば、実は多重人格の同一人物だとしたら、アンソニーがアダムを装ってメアリーとセックスしていて、「指輪の跡があるから」と別人と判断されるのが説明できない。
別人だとすると、アダムがアンソニーに出会う前からアンソニーとヘレン夫妻の記念写真の切れ端を所持していた理由が説明できない。
恐らく外見上はこうした解釈の多義性を残したまま、監督はストーリーとは別の物事を語ろうとしているのではなかろうか。言うまでもなく、それは男の性欲と女の蜘蛛の網である。
作品の冒頭、アンソニーが秘密の部屋でストリップ等の性的なショーを鑑賞するシーンがある。そこに出てきた蜘蛛は踏みつぶされる。メス蜘蛛の網の中では男が他の異性への性欲を全開に出来ないのだ。
しかし、市街を見れば、路面電車の上には電線が文字通り蜘蛛の巣のように広がり、蜘蛛の胴体そっくりな建築物が聳え立ち、やがて巨大な蜘蛛が街を睥睨する。
蜘蛛はさまざまな象徴として使用されているが、本作では男の性欲に対置されるものであることが明らかで、最も近いのは昆虫界のオスとメスの関係だろう。
男が配偶者や恋人を置いて、性欲の解放、充足を求めるのに対し、女は男を広大な網で絡め捕ろうとする。昆虫の世界では、オスは自分の5倍も大きなメスの作った大きな網の隅に同居しているが、やがて繁殖の用が済めば捕食されてしまう。
本作で繰り広げられるのは、蜘蛛のオスとメスと見紛うかのような男と女の関係であり、自分のメス以外に色目を使ったオスは、例えばアンソニーは無残な死を迎え、アダムはいったんはヘレンに性欲を充足してもらえるが、次のメスを狙おうとした瞬間、巨大な蜘蛛と化したヘレンに捕食されてしまうのである。
比較心理学では人間と人間の比較ばかりか、人間と動物の心理まで比較対照させて研究するが、監督はここで人間の男女を蜘蛛のオスとメスの姿になぞらえて、「バカですね~」とシニカルに呟いているように見えるw