劇場公開日 2015年4月18日

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「地続きの悪夢」インヒアレント・ヴァイス 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0地続きの悪夢

2021年9月7日
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「悪夢(のような)」という形容詞で表現されるような不条理なできごとが現実世界にはある。無数にある。殺人、レイプ、大震災、その他諸々。

なぜそのような形容詞が用いられるかといえば、それらのできごとを「悪夢」としてフィクショナルな位相に棚上げでもしない限り、我々は「平穏な現実」というスタブルな足場を失ってしまうからだ。「悪夢のような」という形容詞を用いるとき、我々は意識的にであれ無意識的にであれその対象を現実ならざる異物として処理しようとしている。

しかし一方で「平穏な現実」なるものが実のところ数々の矛盾を孕んだ欺瞞であることにもまた我々は薄々気が付いている。

我々がいくら「悪夢のような」という形容詞によって不都合な部位を切除し、「平穏な現実」の神聖/真正さを守ろうとしたところで、そもそも守られる現実そのものが内在的な瑕疵を抱えている。たとえば一見して安穏なロサンゼルスの街並みにもさまざまな異民族やマイノリティの血と涙が染み込んでいるように。

この映画には実際に起きたできごとと幻覚の境目がない。いや、厳密にはあるのかもしれない。しかしその境目が意図的に描かれていないことだけは確かだと思う。

どこまでが客観的事実で、どこまでが薬物中毒の症状なのか。それを明示する手がかりは何もない。「わけがわからない」という素朴きわまるレビューは何も間違ってはいない。私もそう思うし。

思うに、PTAは実際に起きたできごとと幻覚(あるいは悪夢)を地続きの現実として描き出そうとしている。

すべてを並列可能なものとして、平等に、つまり「悪夢のような」といった留保を用いることなく横一列に並べていくことで、それらはすべてが現実なのだと言ってのける。

不条理なできごとをフィクションとして切り離すことで成立する「平穏な現実」もまたフィクションに過ぎず、そこに社会あるいは人心を抉ることできるようなリアリティなどはない。

この映画は混沌だ。混沌そのものだ。合理性もなければ一貫性もない。何もかもが宙ぶらりんで気味が悪い。

それでもこの映画に心を動かされてしまうのは、不条理の連続にもかかわらず目を奪われてしまうのは、この映画が他ならぬ本物の現実を捉えようとしているからに他ならない。

現実は平穏でも神聖でも真正でもない。そこには不条理が、混沌が、内在的な瑕疵が、すなわち"Inherent Vice"がある。

因果