劇場公開日 2014年4月19日

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「これは漢気の映画なのだ」チョコレートドーナツ よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

3.0これは漢気の映画なのだ

2016年11月28日
PCから投稿
鑑賞方法:TV地上波

悲しい

興奮

 本当は自分はこうしたいのだけれど、今は世を忍ぶ仮の姿。ルディとポール、二人のゲイはそのようなものを抱えて生きている。
 他人に迷惑をかけない程度に思ったことを口にし、気持ちにそぐわないことはしない私には想像を絶するストレスである。
 ポールはゲイであることを隠しながら仕事をしなければならないし、ゲイとして生きているルディにしたって、本当は歌いたいのに、仕事は口パクショーのドラッグクイーン。
 逮捕されたシングルマザーの一人息子はダウン症のマルコ。ゲイの存在そのものが法律で認められていなかった時代には、この子を家族として引き取りたいという二人の願いはそのまま社会への異議申し立てとなった。
 彼らの戦いは最初から勝ち目がない。しかし、「男なら負けると分かっていても戦わなければならない時がある。」(キャプテンハーロック)と同義の言葉が、彼らの弁護士の口からも出てくる。
 「正義などない。そこから戦いが始まる。」自分を守ってくれる正義などない。被害者の顔さえすれば誰かが助けてくれるような甘い現実ではない。
 そのことを知ったときから人の戦いが始まる。
 あえて言う。漢気という言葉が現代社会にも有効だとすれば、彼らの挑戦こそ漢気を示しているものに他ならない。男であることを捨てている二人のゲイが、男の中の男でなければ挑むことなど出来ない、負けると分かっている戦いに挑むのだ。
 いくつかの同性愛を扱った映画を観て、いつも熱いものを感じる理由がここにある。どうしようもなく女好きのスケベである自分が、ゲイの映画を観て熱いものを感じて共感するのはなぜか。
 彼らの社会への異議申し立てには味方が期待できない。それでも自らの尊厳を賭けて戦わなければならない。そこに挑戦する勇気。
 たまたまマジョリティーの側にいる自分が、なにかの拍子にマイノリティーになることがあるかもしれない。その時に、自分はこの勇気を持つことができるか。戦えるか。その問いを突き付けられている気がする。
 涙など流してはいられぬほどの彼らの無念、自らへの厳しい問いを感じた。

佐分 利信