悪童日記 : 映画評論・批評
2014年9月30日更新
2014年10月3日よりTOHOシネマズシャンテ、新宿シネマカリテほかにてロードショー
双子の美少年を通して戦争のむごさを描く人気小説の、正しい映画化
「映画化は不可能だと言われてきた」というのは使い古された宣伝文句で、ほとんどの場合、信用ならない。しかし、アゴタ・クリストフの「悪童日記」はもしかしたら、本気でそう思われてきた小説かもしれない。なぜならこの小説は、あまりにも特異な文体をもった傑作だからだ。おそらく中欧のどこか。第一次世界大戦が始まり、双子の美少年が疎開先の“小さな町”で、過酷な状況を生き抜くために強くなろうとする物語は、双子の日記として表出される。主語は、つねに一人称複数の「ぼくら」である。「ぼくら」はノートに真実しか書かない。曖昧な正しさしかもたない感情表現を避け、淡々と叙事だけを連ねる。一切の感傷を排した簡素な文章はそれだからこそ読者の心に深く切り込み、読むことのもたらす昂奮と戦慄、衝撃を体感させる。この実験的で挑発的、限りなく文学的な文体を、映像という言語でどう表現すれば魅力を損なわずにすむというのか?
はたして原作者と同じハンガリー人のヤーノス・サース監督がとったアプローチは、目から鱗のシンプルさだった! こう来たか、と意外な気もするが、これが正解だと思わせてくれる。まず、亡命作家がフランス語で書いた原作を、そうあるべきだったハンガリー語で撮る。そして素晴らしいのは「ぼくら」を演じるのに完璧な、美しい(しかも過酷な生活の何たるかを知っている)双子の少年を起用できたことだ。クリスティアン・ベルガーのキャメラがすくい取る、どこかくすんだような田舎町の風景。そしてその光と影に浮かび上がる、少年たちの強いまなざしが映画の文体を生み出し、即物的な表現の中に詩的で人間的な複雑さを刻みつけているのだ。彼らの表情は喜怒哀楽をわかりやすく浮かべてはくれないが、だからこそ、見る者は自分の感情を使って読み解いていくことになる。
映画はもちろん双子の子どもっぽさ、毒舌強欲おばあちゃんの大人げなさといったユーモアも楽しませてくれる。感心するのは小説の簡素な描写力を忠実に写しとりながら、その特異性を張り合ったり、安易に“衝撃”を身にまとおうとしないことだ。原作に読み取れる、むごい残虐描写や性的なえげつなさは、視覚的に強調すれば手っ取り早く衝撃を与えることになるだろうが、ここでは直接的に描かれることがない。ただし露悪的な描き方をされないからといって、戦争や人間の本質への筆致がマイルドになっているかといえば、そんなことは決してないのだ。
双子が内包する鋭いナイフの乾いた哀しみのような、冷んやりとした感触は、ひと月経ったいまもなお、薄れることがない。
(若林ゆり)