家族の肖像(1974)のレビュー・感想・評価
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主人公はヴィスコンティの投影か
孤独だが、好きな絵画に囲まれ読書しながら人生の晩年を過ごすのも悪くはないと思わせる主人公の生き方に共感を持ったが、これはヴィスコンティも思っていたのではないだろうか。
結局、侵入者によって別の方向に行ってしまうが、映画としては何か事件がなければ成立しないのでしかたがないか。
いずれにしても、われわれ一般人には高価な絵画を買えるわけではないので、関係ない話ではあったが、全体的にヴィスコンティらしく、格調の高さを感じる映画だった。
ヘルムート・バーガーを見る映画
日本でも公開当時は大ヒットだったそうだが、私にはもう一つ良さが分からなかった。
主人公はいつものバート・ランカスター。知的に一人暮らしを楽しむ老教授だ。(ヴィスコンティ監督の投影だと思う。)やりたい放題の若い住人達との出会いと別れが優雅なマンションを舞台に描かれる。住人の中で息子と認めるほど意気投合したのが、若きヘルムート・バーガーが演じる急左翼の青年。彼の美しい爆死。その悲劇的な死を追うように教授も死の床についてしまう。耽美な作品。
死にたくなければ社会の今と関われとのメッセージ性と美青年が動き傷つき倒れる甘美な映像美の共存
初見では良く分からず、結局3回見て何となく分かった様な気にはなった。成る程、複雑だが非常に良く出来ているチャレンジングな映画だ。
まずは、上の階と下の階の内装の鮮やかな違いに目を奪われた。家族の肖像画にあふれるクラシックな部屋も良いが、それ以上に上の階の白中心のモダンな室内装が素晴らしい。そして、クラシックと対比しての若人達を象徴する今風の音楽も素晴らしい。その音楽の元に奏でらえる3名が絡む麻薬付きのセックスシーンの甘美な映像の見事さ。ため息が出てしまう。
どうやらこの映画、引きこもっている老人が、上階の人間達、右翼的貴族、左翼運動家、フリーセックス信奉娘、そして現実主義者、即ち現在イタリア社会との関わり方の物語の様に思われる。そこから逃げていた教授だが、最後の方では彼らと不器用ながら関わる様になり、本人が言う様に静かな死の世界から脱出しかけた。ただ、もう少しだけヒトの気持ちに応える積極性があれば、青年の爆死は防げたのに。現在社会と関われという監督の観客へのメッセージ性と自らへの決意の様なものを感じた。
そもそもこの教授、あまりに美しいドミニクサンダ母やベッドの側で泣き崩れ、側に居てと訴えかけるクラウディア・カルディアーナ妻の回想シーンから、マザー・コンプレックスで同性愛者か。なのに妻に浮気されて許さなかった輩、家族を夢見て自業自得で夢破れたヒストリーをイメージしてしまった。そう、教授はビスコンティ監督の分身。ただ、若く美しい男を追い求める伯爵夫人も、ヘルムート・バーガー演ずる芸術を嗜むインテリ左翼運動家も、そして娘の恋人で政府のスパイ?で現状肯定論者も、皆、監督の分身の様に思える。この映画は、監督自身を語った物語でも有る様である。
ただ、カメラの眼差しはヘルムート・バーガーに向けてあまりに熱い想いが満ち溢れている。執拗に彼の動き、話し、傷つけられ、血塗られた、そして爆死した様を執拗に舐める様に追いかける。そして、監督の分身、バート・ランカスター演ずる教授は傷ついた彼を抱き上げてベッドに運ぶ。娘役の女優さんも随分可愛いと思うのだが、カメラはそれを無視して彼の金髪、裸体に白ブリーフ姿、シャツ1枚の姿、さりげないが高価に見える衣装に包まれた姿を、有名監督が妻の女優の美しさを賛美するかの様に追いかける。まあ個人的には、彼がアランドロンだったら多少共感できたのにとも思うのだが。監督が自覚している以上かもしれないが、結局何よりもヘルムート・バーガーの妖しく脆い美しさを賛美するための映画になっている様である。
孤独と静寂の終わり
扉には厳重な鍵がかけられ、隠し部屋のような私室にこもって孤独と静寂を愛しながら生活を送る教授。しかし、孤独を望みながらも絵画を愛する彼の部屋のいたるところにはあらゆる家族の肖像画が掛けられている。
そんな彼の孤独で静寂な生活を打ち破ったのはビアンカという謎の貴婦人。空いている部屋を賃貸してほしいと頼む彼女に対して、教授は部屋を貸すつもりはないときっぱり断る。
その部屋を気に入らないかもしれないから見たいとせがむ夫人。断られたのだから見ても無駄だと思うのだが。そしてプロフェッサーも貸すつもりもないのに部屋を案内する。
更に夫人に続いて娘のリエッタと婚約者のステファノ、夫人の愛人であるコンラッドまで現れ、成り行きで結局彼らに部屋を貸すことになってしまう。
改修しても良いと言ったのは浴室だけなのに、部屋全体を改修してしまったために、教授の大切な美術品を置いた部屋はめちゃくちゃになってしまう。
苦情を言いに部屋に向かった彼を、なんと部屋にいたコンラッドは開き直って逆上する。
しかも、コンラッドが聞いていたのは教授が夫人と交わした契約とは全く違い、部屋は買い取りで好きに改修して良いというものだった。
夫人に苦情の電話をするコンラッドだが、ヒステリーを起こしたかのような夫人は教授との会話にもまともに応じられない。
さすがに気まずくなったコンラッドは教授に詫びを入れる。粗野で乱暴者だと思われていたコンラッドだが、実は絵画に造詣が深く彼との会話に教授は知的なものを感じ心引かれる。
基本的には夫人を筆頭に常識的な話が通じない彼らに本当なら教授はもっと怒っていいはずだし、色々と問題視しても良いはずだ。
しかし、彼は部屋を元通りにしてくれるならまた住んでも良いとかなり寛大な措置を取る。
ある夜、謎の二人の男が押し入りコンラッドは殴られ怪我を負ってしまう。警察には知らせないでほしいという彼の考えを尊重した教授は、彼を隠し部屋のような自室に運び看病する。
静かな生活を邪魔されて大いに迷惑している教授だが、不思議と彼らを追い出そうとはしないし、逆に親切にする。
相変わらず大きな音で曲を流すし、ある夜にはコンラッド、リエッタ、ステファノの三人は裸になって快楽にふけっている。
リエッタが教授となら結婚してもいいと教授に口づけするシーンは印象的だが、この娘も色々とずれている。
家族のように仲のいい彼らだが、実はお互いのことを良く知らないのかもしれない。ベルリンで左翼に傾倒し過激な運動をしていたというコンラッドはある日警察に拘束されてしまう。
そんな危険な男に娘を預けていたのかと夫人をなじる教授。彼は言うほど悪い人じゃないと庇うリエッタ。
色々と和解の意味をこめて教授は四人を食事に招待するが、政治的な意見の対立でステファノとコンラッドは掴み合いの喧嘩を始めてしまい、そのままコンラッドは部屋を出ていってしまう。
その時に初めて教授は心のうちを彼らに明かす。彼らのことを家族だと思うようにしたと。なるほど、家族とは安らぎだけではなく、互いに迷惑もかけあうものだ。
結婚に失敗した過去を持つ教授はずっと孤独を望みながらも、どこかでまた家族とつながりたいと思っていた。
彼が読んだある本の内容を語るが、それは彼と同じように部屋を貸している男の話。上の階で足音がするが、それは彼に死をもたらす音だった。しかし、彼が部屋を貸した四人は彼に死ではなく、もう一度明るい生活をもたらしてくれたと。
だが、幸福な時間は唐突に終わる。教授にもう二度と会うことはないだろうと手紙を残したコンラッドは部屋で爆死する。
ショックのあまり床に伏す教授の元に現れた夫人とリエッタは喪に服す黒ではなく真っ白な格好で現れる。
コンラッドは死ぬことで償いをし、自分たちに罰を与えたと語る夫人に、母のことは信用してはダメと告げるリエッタ。
再び孤独になった教授の耳には上の階で歩く誰かの足音が聞こえる。最後に目をつぶった教授は、自分で話した本の内容通りに死に連れ去られてしまったのだろうか。
色々と感情を揺さぶられる内容だったのと、コンラッド役のヘルムート・バーガーの容姿の美しさに見とれてしまう作品だった。
“家族と思えば我慢できる”…残りの人生を一人で過ごす身としては関わる人々をそう思えば付き合って行けるのだろうか…実質的なヴィスコンティの「スワン・ソング」…やはり傑作だった!
①2022.10.06 3回目の鑑賞(映画館では2回目の鑑賞)。更に理解が深まった。故淀川長治先生の言われた通りよい📽️とは格闘しなければならない、何回も(理解を深める為に、或いは理解出来るまで何度も観ると言うこと)だなと再認識させられた、[以下、2回目と3回目の鑑賞を併せての感想。] ②私はヴィスコンティの📽️が大好きである。(一番好きなのは『地獄に堕ちた勇者たち』と『ルードウィッヒ~神々の黄昏』) 本作も日本公開当時は私の映画の師匠(と勝手に思ってます)である淀川長治先生、双葉十三郎先生をはじめ殆どの評論家が絶賛した。でも私は観れなかった(公開当時シンガポール駐在中だったので)
③で、数年前に配信が始まったので“よし!”と思って観たらも一つピンと来なかった。“これがヴィスコンティの傑作?ヴィスコンティとしては中クラスではないかい?”と失望していた。
③で、今回「午前12時からの映画祭」で“やはりヴィスコンティは観なくちゃ”と大スクリーンで鑑賞。すると我ながら呆れるが私の中の評価がごろっとひっくり返ってしまった。
④大スクリーンに映される映像から途端に風格が漂ってくる。主人公の老教授の書斎の絵のように豊潤な美術。“ああ、ヴィスコンティの📽️だ!”と早速魅力される。。やはり大スクリーンで観ないと駄目なのかな。
⑤沢山の「Conversation Piece」(英語の題名にもなっている)に囲まれた書斎のある家で使用人を別にすれば一人で暮らしている老教授。経済的にも教養的にも遥かに差はあるけれども今後の自分の身に置き換えて共感してしまう。
さて、静かな独り暮しを送っている老教授の家に突然闖入してくる如何にもブルジョワなオバサンとその娘とその婚約者。教授の強い反対にも関わらず使っていない階を厚かましくも勝手に改造しようとして教授の書斎は酷い迷惑を被る。まるで教授の心の中に土足で踏み込んできたような。
⑥すったもんだの末分かったのはブルジョワおばさんが階をかりたかったのは自分の若いツバメの宿とするため。すっかり相手のペースに乗せられた教授の迷惑も顧みず若いツバメとブルジョワおばさんの娘+その婚約者の享楽的で自堕落な生活(当時の若者風俗の風刺か?)に呆れる教授。
⑦ところが、ふとしたことでゴクツブシと思っていたツバメ=青年が絵と音楽とに理解と豊かな教養を持っていることがわかり、青年が怪我をした時にその介抱をしたこともあり、教授と青年とは次第に心が通いはじめる。
⑧青年が元学生運動活動家であり今は左翼の活動家らしいこと、ブルジョワおばさんの夫は右翼(それもファシストのよう)だということ、当時のヨーロッパにおける左翼と右翼との対立や抗争、それらも点描或いは会話の中に暗喩されるし、深読みすると青年(コンラッド)がブルジョワおばさん(ビアンカ)の愛人になつたのも(前にも同じようなことをしていたらしいし)左翼のスパイとして右翼の旦那の情報を取る為だったのかもしれない。(劇中ではっきりとビアンカの旦那が共産党の幹部の暗殺を企てていたことを警察に報告した、と言っていたし)
⑨しかし、そういう脇筋よりも、やはり心を揺すぶられるのは主筋である老教授と青年との関り合いだろう。何故か教授は彼のことが気になり、まるで息子のように接する、或いはそれ以上の感情を持って...
⑩📽️の中でビアンカは言う“あなたも彼の色気の虜になったのかしら?”。教授は言下に否定するが、教授はヴィスコンティの自画像とも言われている(ヴィスコンティはゲイだった)から、教授はゲイかバイだったのかもしれない。それと、初めてコンラッドと会った(というより見た、という方が正鵠か)時の一瞬の教授の表情!
⑪ともかく、本作でコンラッドを演じるヘルムート・ベルガーは『地獄に堕ちた勇者だも』や『ルードウィッヒ~神々の黄昏』とは違う、確かに女も男も魅了するような魅力を醸し出している。やはりヘルムート・ベルガーの魅力を一番引き出したのはヴィスコンティなのだろう。
⑫一人で世間と没交渉で生きてきて一人で死んでいくと思っていた教授は、一時感じた孤独感から他人と関わろうとしたわけだが、、関わったのが教授とは全く違う価値観を持つ若者たちであり複雑な人間関係にある人達(コンラッドも含め)であつたことから、教授はかなり面倒なゴタゴタに巻き込まれてしまう。死の前にそういう経験体験を味わった教授は果たして幸せだったのか、やはり最後は一人で逝くことになったわけだが、やり後悔しただろうか(コンラッドを養子にする事に人生最後の希望を託していたのだろうか?しかし、そのコンラッドは恐らく密告の報復として爆死させられた。教授の家で・・・)
⑬3回目の鑑賞で、ただの若い男を囲う有閑夫人だと思っていた(確かにそうではあるのだが)ビアンカにも彼女なりの心の闇があるのを感じることが出来た。さすがにシルヴァーナ・マンガーノでありヴィスコンティの演出だ。
ところで、ヴィスコンティは最初この役をオードリー・ヘップバーンにオファーしたとのこと。しかし、オードリーは断り、ヴィスコンティは「彼女はいつまでもプリンセスの殻の中から出てこうとしない」と批判したと言う。確かにこんな退廃的な役を演じたらイメージが崩れかねないし、結局オードリー・ヘプバーンという一つのイメージで生涯を全うした生き方も尊いとは思う。ただ、こういう役を演じるオードリーも観てみたかった気もするけれども。
⑭ドミニク・サンダも久方ぶりの再会である。やっぱり北村匠海によく似ている...って逆か...北村匠海がドミニク・サンダに似ているんだ...初めて彼を見たとき“誰かに似てるな?...そうだ。ドミニク・サンダだ!”と思ったもの。
⑮次作で遺作となった『イノセント』も好きな作品だが演出力の衰えは隠せなかった(殆ど寝たきりで...撮影現場にベッドを持ち込んで演出したと聞いている)。それでも水準を上回る作品となるのは流石ヴィスコンティですが。次作にはヘルムート・ベルガーとシャーロット・ランプリング主演でトーマス・マンの「魔の山」の映画化を企画していたという。演出力は更に衰えていたかも知れないけれど観たかったなぁ・・・
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