家族の肖像(1974)のレビュー・感想・評価
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伯爵夫人ラブ🖤
ふたつ、言葉が印象に残った。
ラストシーン、死の床で教授が気づくのは
"これが家族。これが一緒に生きていく形だった"ということ。
そしてもうひとつ、
"死んだって何も変わりはしない"と喝破した伯爵夫人。
(若者コンラッドのピストル自殺を受けて)。
このふたつの言葉は、まぎれもなくあのクサヴィエ・ドラン「たかが世界の終わり」の予言だ。
舞台のそでに誰が退場しようとも、家族という怪物はびくともしないという強烈さ。
絶望と笑いがきしみ音を立てながら同居する世界。
かつての巨匠ヴィスコンティと新星ドランがこうして地下茎で繋がっているのを知るのは、非常に面白い。
苦手でした。。。
ルキノ・ヴィスコンティ監督作品を見るのはこれで2作品目でした。
ヴィスコンティは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』がめちゃ好みだったのですがこれはあんまり。。。批評家の評価は高い作品なのですが自分にはさらさら合いませんでした。
もうびっくりするくらい人間関係や台詞が頭に入ってこなくて。見直したら変わるのかな。。。
仲良くなくとも一緒に!
貴族・非貴族、資本家・労働者、欲望・理性。家族の中に、そんな対立構造が隠されていたら、まとまるのは大変。
地球規模で見ると、いつもそれらがごちゃ混ぜ。まとまっているように見せ、平穏な気分を保つだけでも大変だよな。
冷戦間近の頃の不安定期からおよそ半世紀。今はまた、超不安定期。
この映画にふさわしい。
久しぶりに見ました
以前見たときは若すぎてよくわかりませんでした。
貴族の退廃、戦後の解放的な文化の中にある退廃、この二つの退廃の中に生きる若者たちと老教授の予想外の深い交流が、静かに何かを押し殺して生きているような老教授の何かを蘇らせたように思いました。
ただ、そうやって蘇ったものは生き生きしているけれど、儚く移ろい捕まえられないもの。最後のシーンが心に響きました。
良いです、やっぱり!
1980年代前半にどこかの映画館で見たんですが、30数年ぶりに見ました。
当時は意味が全くわかってなかったと思います。ガキでしたので。見直してよかったです。
山猫が交響曲だとすると、これは室内楽ということになります。同じバート・ランカスターが主人公というのは偶然ではないのですね。テーマは共通していますから。
昔見た時にはほとんど記憶に残っていなかったリエッタが結構重要な役だったんですね。
彼女は女優をやめてしまったようです。
ドミニク・サンダ!お懐かしい!子供に向かっているはずなのに、あの上目遣いはなんなのでしょう。本当に美しいし、これぞヨーロッパのデカダンスの匂いが充満して、しびれます。
交わるはずのなかった教授と闖入者たちとの関係が変わるのは、ヘルムート・バーガーが示した予想外の「教養」に教授が心動かされたからです。日本の大学の薄っぺらい教養とは次元の全く異なるところの教養ですが。こういうところもヨーロッパ臭くてたまりません。
教授が、科学批判をする。現代科学は、中立ではないと言っていたところ。正確な言葉は忘れてしまったけれど、福島原発事故後それがまさにその通りだということを嫌というほど見せられてきて、この言葉の重みが沁みました。これは映画にとっては隅っこの方でしかない部分でしたが、現代科学批判という教授の考え方が端的にわかるシーンとして重要だったと思います。
このように、隅から隅まで神経が張り巡らされて意味のある非常に密度濃い映画。これをさらに重厚にしているのが音楽ですね。コンラッドが好きだというモーツァルトのアリアのシーン、最初にビスコンティが想定していたのは、なんと!ばらの騎士だったというではないですか!きっと1幕のマルシャリンのアリアに違いない!時とは残酷なものという、移ろいゆく時間は何ものにも止められない鴨長明的アリア。著作権の関係で使えなかったそうですけれども、これが使われていたらさらに一段と映画全体の意味が凝縮されて、ここに鋭く立ち上がっていたことでしょう!
昔はこの映画がそこまで評価されるのがわかりませんでしたが、今ならわかります。やはり上に足音がたまに聞こえる年齢になったからかもしれません。それにしても今の若い世代はこういう名作を見ないんですかね、映画館には40代以上しかほとんどいなかった…もったいないですね。現実の社会へ踏み込む批判が感じられないシンゴジラが評価される国ですからね。先行き不安を感じました。
初めての岩波ホール
だいぶ綺麗でスクリーンで見ても違和感ないです。岩波ホールは初めてだったのですが、年配の方が多く名作を見慣れているのか、イビキが聞こえてきたのは少し残念でした。
ひいき目で見てしまいますが、普通にいまでも観れる作品でベニスに死すよりな作品だと思います。
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