「クレヨンしんちゃんの映画としては…正直ガッカリ」映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん 水樹さんの映画レビュー(感想・評価)
クレヨンしんちゃんの映画としては…正直ガッカリ
周りの高評価などに期待して鑑賞してきたのですが、
評価としては映画としては☆4つですが、
クレヨンしんちゃんの映画としては☆3未満位でした。
その前に、ちょっと映画館であったことを
愚痴らせていただきたいので、興味が無い方は
====の線の部分まで飛ばしていただければ幸いです。
===================余談です======================
まず作品の前に少し愚痴なのですが、
作品が作品なだけに周りの親御さんの態度が
物凄く気になりました。
子供向け映画はよく行くので
お子さんが騒ぐのは仕方の無いことだと
その点は重々理解しています。
ですが子供が過剰に騒いだり、席で暴れているのを
「子供だから当たり前」っと言わんばかりに放置。
叱りもしなければ、ろくに諫めもしない。
挙句自宅のテレビで見ているような感覚で
子供と一緒になって喋ったり独り言を言う親御さんが
周りにいらっしゃって驚きました。
錦糸町の午前の回で見てきたのですが、
子供2人づれの女性の方は一度注意したら
それ以降親御さんが大声で喋るのも、
お子さんが騒ぐのを静めてくださったのですが、
隣の親子4人でいらっしゃっていたお父さんは、
まともに静かにさせようともせず、
「ごめんな」っと不服そうに謝って放置。
挙句自分達の座席の補助シートの片付けもせず、
足元には撒き散らかされたポップコーン。
仕方なく補助シート2つを回収して
スクリーンを出たところ、まだご家族が居たので
「これ片付けないと…」っと言ったところ、
お母さんは直ぐにシートを受け取られて
謝られたのですが、お父さんのほうは相変わらず
うるせぇなぁと言わんばかりの態度で
「ごめんなぁ」っと言って終り。
子供の躾の悪さって、やっぱり親の人格を
反映するんだなっと痛感させられました。
ただ男兄弟のご家族鑑賞だったのですが、
お母さんの側に座っていた弟さんは
終始静かに見ていたのに対して、
お父さん側に座っていたお兄ちゃんが
大騒ぎしていたところを見ると、
今回の映画のように「父親」が
「父親」の役割を果たしていない社会なのだな、
子供はよく見ているなっと思わされました。
ご家族での観賞会ですし、子供は騒ぐものです。
周りから文句を言われたら「子供向けの映画なのに」
っと自分達の楽しい時間を邪魔されて
不服に感じるのもわからなくはありません。
ですが、映画館は静かに映画を見る場所です。
騒いでいれば怒られるのも当たり前のことです。
そのことを親が教えないで、周りに怒られたら
仏頂面で自己正当化を図るのであれば、
お子さんはいつ社会のマナーを学ぶのでしょう?
ましてや静かなシーンで子供が騒いでいると、
「静かに見ないと駄目だとよ」っと親御さんが
静かに注意する声が聞こえてきたり、
周りの子達や親御さんは自分達で片付けている中です。
小さい子供を盾に自分達のやりたい放題を通そうとする
そういう親御さんには正直、心底不快感を感じました。
作品の中でも公園で子供を盾にやりたい放題している
馬鹿親が出てきますが、本当に作品で自分達が
揶揄されているのにも気づけないのだなぁっと
今の大人世代にすこしげんなりしました。
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さて作品の評価の方なのですが。
クレヨンしんちゃんの映画らしくコンセプトは
「家族の絆」これに今回は「父親」に焦点が当てられ、
現代社会で威厳を失った「父親」達に対して、
「父親」とは何かを、アニメ界の平均的な
現在家族の父親代表「ヒロシ」を使って、
表現していこうというのが今回の映画のメインだと
思われ、CMや広告等もこれを押し出してきていました。
クレヨンしんちゃんの作品で「大人」を描くというと
やはり「モーレツ大人帝国の逆襲」が一番に出てきます。
特に「父親」「家族」を描いているシーンと言うと
ヒロシの回想シーンとエレベーターでの
ヒロシの台詞が頭に浮かぶ方が多いと思います。
しかし今回の映画での「ヒロシ」と「ロボヒロシ」が
父親としてどうだったのか、そして作品自体が描く
「父親」とは「躾」とはなんだったのか。
っという点に焦点を当てると、個人的には今回の作品は
あの5分の映像に完敗しているように感じます。
ただこの脚本の方「ケツだけ爆弾」の時もそうですが
どうもクレヨンしんちゃんという作品よりも
製作側の意図や現実的な家族像を優先するため、
なんとなく野原一家の家族関係が希薄に描かれるんですよね…。
まず今回の作品の違和感に関してなのですが、
母親である「みさえ」が「しんのすけ」に対して
手を上げるシーンがほとんどありませんでした。
またいつもの作品に比べ無駄にヒステリックです。
これは製作側が意図的に現代は「母親が叱る」
それが故に父親が叱るという意味合いが
減ってきてるのを描きたかったのではないかと思います。
確かにクレヨンしんちゃんという作品において、
父親のヒロシが手をあげることは少ないです。
それが故にヒロシという「父親」は、
いつでもヘラヘラ笑っていて、子供に甘く
どこか頼りない父親にも見えます。
でも、それはあくまで彼ら家族の躾であって、
過剰に叱ったり容赦なく手を上げる
「みさえ」に対して、それを知っているからこそ、
「ヒロシ」は子供を慰めているのだし、
本当に叱らなければいけないときはきちんと叱ります。
それをいまさらになって「手をあげない母親」に
造り変えて「情けない父親」として描くのは、
正直、なんだかクレヨンしんちゃんという世界観を、
製作者の主義主張のために書き変えているような
そんな違和感を強く感じました。
また「ロボとーちゃん」の存在に関してもですが、
自分が「本物」だと必死に訴えて居たりしますが、
なんというかここにも酷く違和感を感じました。
今までの作品の中でこういう異常事態が発生した時に、
野原一家ってこんなに「普通」を気にする家族でした?
普段の野原一家なら意外と早めに順応した気がします。
もちろん「夫」が万能ロボットになって帰ってきても
喜ぶのは子供だけで妻は恐ろしく複雑ですし、
大人であれば余計に簡単には受け入れられない
不気味なものでしょう。その辺りはみさえの表情の
作り込みや言動が本当に繊細に描かれていて、
関心したのですが。
やっぱりこれもクレヨンしんちゃん?っという
印象が物凄く強く残りました…。
また全体的にロボとーちゃんが本人とは違う
「偽物」であるというのを製作側が意識し過ぎているのが
物凄く感じられる表現が多々ありました。
確かに行動はヒロシらしいと言えばヒロシらしいのですが
どこか偽物前提のヒロシらしさが物凄く感じられるのです。
いつも私財の破損等を気にするヒロシが車の屋根外します?
子供と遠足に行きたいっと騒いだこともないでしょう。
無駄に短時間に「父親」らしくしようとしているのが、
偽物臭さを感じさせられて、どうも受け入れづらかったです。
また今回は「ロボとーちゃん」をヒロシらしく
っという製作側の意図が強すぎて、
本物の「ヒロシ」のほうが、全く「ヒロシ」らしくも
「父親」らしくもないのが印象的でした。
いつもは映画では家族の危機になれば
自分の命を顧みず我武者羅に飛び込むのが
親である「みさえ」と「ひろし」ですが。
今回は自分が囮になる!っと言っておきながら、
何故かしんのすけを抱えたまま敵を呼んだり、
ただ単に自分が「本物」だと証明することに
意固地になり、「家族」を全く見ようともしない
そのヒロシの父親象に違和感があり、
これもクレヨンしんちゃんの「ヒロシ」だとは
あまり感じられない作りになっていました。
また映画自体のコンセプトでもある。
「父親」という像に対してなのですが、
これも今回の映画は「父親」を描きたかったのかが
正直わからない作品ではありました。
公園のシーンで「母親」が「子供」を盾にして
親父たちを追い払うシーンがありますが、
これも本来であれば「目上の人を馬鹿にする」
「子供を盾に身勝手をする女性」というのが
問題なのであって。
むしろ「子供がいるんだから煙草は気を使え」
っというのは一理あると思います。
喫煙所は喫煙を許されてはいますが、
喫煙という行為が周りに不快感を与えやすいのは
近年では周知の事実なわけですから。
「喫煙所だから吸っても良いんですよ」
っと平然というのもおかしいですし。
喫煙所なんだから公園で子供が居たって
僕らはルールを破ってないから気にしません!
みたいな態度は正直ただの子供の我儘ではないかと…。
子供を盾にしてやりたい放題する親も大人として
失格ではあるとは思いますが、ルールさえ守れば
他人に迷惑かけても許されるっと考えるのも
正直ただの餓鬼の論理にしか感じられません。
「父親」の立場を主張するのであれば、
「父親」として責任と信念を持って語ってほしかった。
ただおっさんの我儘を騒いで、過去の頑固親父の
おっさんにとって都合の良い部分を「頑固」といい
「父親の威厳」とするのは正直幼稚すぎではないかと。
娘の交際が許せないのは父親が男性であって、
娘の身を案じてのことでしょう。
いちゃつくカップルがむかつくのはただの嫉妬です。
自分達が虐げられていることに関して、
全うに立ち向かおうとしない姿は結局今回の敵もそうで、
ただあの我儘を掲げ暴挙に出ただけの、
なんの正当性も無いデモが父親と家族の立場を
回復させたっというのは正直がっかりです。
何故あの公園にいた影の薄いお父さんが
息子さんや嫁と向い合って会話を交わすという
シーンを作らなかったんでしょう?
何故公園のおじさん達が子供を叱る、
社会の常識を教えるシーンを作らなかったのでしょう?
父親は「大人」として子供を躾ける必要があり、
その確固たる姿が「頑固」なのではないですか?
しんのすけが拷問を受けるシーンもそうですが、
子供向けアニメである、この作品でしんのすけにとって
一番残虐な罰が「家族を失う」ことであるというのを
露骨に出すのは不味いとも思いますが…。
しんのすけはピーマンを時々克服してるのを考えると、
ピーマンを食べるのが一番残酷ってどうなんでしょ…。
ましてや前半の伏線にする部分で一応ヒロシ自身は
しんのすけにピーマンを食べるように叱ろうとする
姿勢を見せては居ますし。
あの場であの行為が「押し付け」だと騒ぐのは
敵の言う「馬鹿親」そのものではないかと思います。
ましてやあの状況を「躾」と混合しているのは、
製作側の意図の押し付けが強すぎて意味不明です。
そう考えると今回のコンセプトに対する
映画作品としては完全に失敗であったと感じます。
もちろん最後のシーンは感動しますし
映画作品としてもヒロシが「父親」という
存在としていかに家族に愛されているか
「夫」としてもみさえに愛されているかというのは
本当に表情の作り込みからよくわかります。
それが故に「本物」と「コピー」の問題は
その言動によりかなりエグい表現がされています。
ただ正直個人的には最後の腕相撲は、
ヒロシが超人的で父親の理想像であるロボとーちゃんから
「父親」という立場を取り戻す戦いなのですから、
ボロボロの状態のロボとーちゃんから取り戻すのではなく
ある程度完全な状態に見えるロボとーちゃんに対し
何度も果敢に挑んで、それも立場を取り戻す、
その背中をきちんとしんのすけに見せてほしかったです。
しかし近年のクレヨンしんちゃんの作品としては
本当にレベルが高く好感が持て面白い作品ではありました。
人にはお薦めしたい作品ではあります。