アクト・オブ・キリングのレビュー・感想・評価
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最後に引き起こされた化学反応がすごかった
過去の惨禍の加害者が、現代に至って当時の被害者役となりその惨禍の歴史を再現する映画を撮ろうとする、何とも理解しがたい男たちのお話。 インドネシアではこうも当たり前にコミュニストが差別されているのかと驚くばかりで、悪乗りで大衆の前でコミュニストを虐殺するシーンを寸劇再現しても、罵倒や批判というものは皆無で、むしろ大いに盛り上がっていることに驚きを隠せない。これこそが過去の惨禍が残したものといっても過言ではあるまい。 虐殺の劇中劇が数多く展開され、見ているこちらも半ばうんざりするほどに呆れてしまうのではあるが、演技であるはずのそのシーンが、演じているのが過去の当事者であるからなのか、不思議なリアリティーを持つ瞬間が多々あった。それは単に事実を語るインタビューやドキュメント、あるいは下手な再現映像なんかよりもずっと身につまされるものがあった。単なる記録ではなく、起こってしまった出来事が確実に存在するといった感じだ。 劇中劇がすすむにつれて、そこで演じている惨禍の加害者の心境が徐々に変化していくさまが目に見えてくる。そしてそれがラストの思いも寄らぬ化学反応へと繋がってゆくのだが、その結果を自分は決して肯定的に捉えることができなかった。映画終盤で涙しそうになったときも、決して泣くべきではないとその瞬間の感情を打ち消してまったほどである。 これが次のルック・オブ・サイレンスに繋がっていったことがよく分かった。 アクト・オブ・キリングとルック・オブ・サイレンスをセットで見て良かった…かどうか分からないくらいにこの題材の根は深すぎる。
価値観の共有が大事
いくら道徳が大事だと言っても、その価値観が共有されていなかったら、無力だ。それぞれの人々がその日その日をどのように生き延びるか考えて行動しているという、当たり前のことを、考えさせられた。 自分だけが幸せではなく、自分の周りだけが幸せでもなくみんなが幸せになるために先人が築いてきた道徳や慣習を守っていくことが価値観を共有できる最良な方法だ。 そうすれば、インドネシアのような悲しい状況を作らずに済むのではないか。
観るべき映画
こんなドキュメンタリーは見たことない。 虐殺の加害者が当時の殺し方を紹介しつつ再現ドラマを撮影していく過程を追っていく、なんて、こんな映画がよく撮れたものだと思う。 加害者が自慢げに語る過去話も、彼らにとっては罪悪感の裏返しなのだろう。それは彼らも自覚しているのだが、やはりどこか僕らの感覚とは違う。自分のやったことをあそこまで再現しようという気持ちが全く理解できないのだ。彼らはおかしくなっているのである。明らかに。 最後には被害者について、一つ思うところがあるが、どこか自分が神によって裁かれるのでは、という恐怖からきているもので、心からの謝罪のような感覚ではないように感じた。 とはいえ、この映画では、彼ら個人を浮き彫りにしつつも、それだけではなく、過去の、人間の歴史についても語っているように思う。ドイツだって、日本だって、アメリカだって、残虐なことをしてきたのだ。これは普遍的な人間の弱さとして捉えていくべきことであるも思う。そういう意味で全ての人間はこれを見るべきである。
こわすぎる
人間が一歩まちがえればいかに恐ろしい生き物かと思い知らされましたが、ラストシーンで、まさかの「音」を聞き、未体験の震えが起きました。 現代というものが、惨酷な過去と地続きである中で、過ちを犯さぬよう生きていきたいと思いました。
この映画は二度と撮影できない
1960年代にインドネシアで起きたクーデターで起こった虐殺で、実行者として大きく関わっていた男の話。実行者本人を起用し、当時を再現した映画撮影を行っていくのだが、撮影を進めていくうちに男は途方もない後悔の念を抱くことになる。
男は日本でいえばヤクザのような存在。
皆から恐れられ、取り巻きから尊敬され、誰も否定をしない。
男は当時の出来事を嬉々として語り、ここで殺した、こうやって殺したという話を誇りを持ってカメラに語り、こうした方がリアルだ、こうやって苦しむんだという演技指導を繰り返す。
ところが虐殺のシーンを繰り返し撮影していくうちに、男は押し黙る時間が増えていく。
印象的な村民虐殺のシーン。一般エキストラを雇い映画撮影を行うが、当時を思い出し足腰の立たなくなる老人が居たり、父母の危機を感じ本気で号泣する子供がいる。
男は初めて自分の行った事を後悔する。
この映画の冒頭シーンで男が嬉々として語っていた建物の屋上に場面が移り、男はその場で嘔吐する。
最後、男は編集された映画を見るが、虐殺シーンでは目を背け、滝を背景にした踊りのシーンでは「良い場面だ」と言う。
男の誇らしげであり嬉々とした態度からその後の吐き気を催す後悔という瞬間を撮影したものとして、この映画は唯一無二となるだろう。この男は二度と撮影は受けないだろうし、受けたとしても二度と同じ反応は示さない。
この映画はもう二度と撮影できない。
ドキュメンタリーなのにオチがあり,ちゃんと映画になってる
ドキュメンタリーなのにちゃんと落ちがある.この話に対して重要ではないけれど映画になってるだけでなく(不謹慎ながら)面白い.しかも虐殺を実施した側が喜々として再現するとかある意味ミラクル
暴力肯定のために与えられた歪んだ正義
1965年9月30日、インドネシアで起きたクーデター未遂を鎮圧したスハルト少将。後にスハルトが大統領にまで上り詰めるが、その過程で、クーデターの黒幕は共産党だと断定され、共産党の関係者、労働組合員、中国人など100万人以上が殺害された。しかし、こうした虐殺について国内で批判される事はなく、むしろ虐殺の実行者たちは、インドネシア国内で成功者・実力者となっており、賞讃さえされていた。この虐殺事件の真相に迫るドキュメンタリー映画が本作である。
本作が、虐殺の実行者たち自らの撮影などによって展開される事に驚きがある。このリアリティは、まるで87年の『ゆきゆきて、神軍』の迫力を彷彿とさせる。
殺人=暴力を肯定するために実行者たちには「社会正義のために」という理屈が与えられる。虐殺の実行者たちは、共産主義を迫害することが正義であるという大義名分によって、虐待から数十年を経た今でも、自らの行動が正しかったと主張する。
しかし、本当に権力を得ている人間、実行者を陰で操っていた人間たちは、その歪められた理屈の危うさを理解している。途中、副大臣が撮影現場で「今のシーンは我々のイメージを悪くする」と指摘しているが、彼らは虐殺が国際的に非難される事がよく理解できているのだ。
主人公は若い頃からハリウッド映画が好きだった。そうした素養があったからこそ、映画の展開が進み、当時の虐殺を正面から見つめ直して行くうちに、自己嫌悪に陥っていく。しかし、それが理解できない仲間達……。社会の脆さがここに表されている。
登場人物たちの歪められた正義は、しかし他人事ではない。
彼らは「アメリカはイラク戦争のとき、『大量破壊兵器がある』と嘘をついてイラクを攻撃した。しかしそんな事実はなかった。戦争の勝利者が正義を決める」と指摘する。
アメリカも、インドネシア政府を支持し続けてきた日本も、けっして対岸の火事の他人事として片付けてはいけない事を本作は我々に突き付ける。
翻弄されるもののサダメ
時代に翻弄された人物が過去を省みて、自分のやった行いを映画化していくうちに自らの行為を見つめなおす。 ということを映画監督にさせられている一人の男の物語。 映画が持っている力は独裁政権下の虐殺を実行した人物にも働くのかと思いました。
悪の生まれる条件
この長尺の映画が伝えようとしていることは、案外にシンプルなものなのではないか?悪人とは、もともと悪人として生まれ育つのではない。彼を取り巻く環境や、彼にのしかかる権力の重圧。そうした諸条件によって、人は変哲のない善人から、歴史に名を刻むこととなる悪人にも変わるのである。
ドキュメンタリーの中心的な存在であるアンワル・コンゴ。彼は、当時1000人以上を殺害した加害者である。しかし、このドキュメンタリーの中で制作される映画では被害者を演じると、単なる芝居を超えた怯え、疲労困憊の表情を隠さない。しかも、彼はこのシーンをまだ自分の幼い孫たちに見せるのである。
自分が拷問を受ける立場だったらどうだろうか。自分の肉親が非人道的な扱いを受けたあげくに命を奪われたらどう思うだろうか。この問いに対する答えを、アンワルは被害者の役を演じることで、自らの心の中に見つけることになる。
もしも立場が逆だったら、自分の運命と相手を恨まずにいられるだろうか。自分の大切な人がそのような仕打ちを受けていたら、秩序や社会を信頼し、自分の未来を信じることが出来るだろうか。
自分が手を下そうとしている相手への想像。この想像を忌避することが悪行を生み出す。人間をこの想像から遠ざけるもの、人間から想像力を奪い取るものの正体こそ権力ではなかろうか。そして、この権力次第で、人間は悪にも善にもなりうる。
もちろんここでいう権力とは国家権力や暴力装置の権力に限られるものではない。人間の想像力を奪うもの、メディア、地域社会などのコミュニティなども含まれる。虐殺のない日本のような社会にも、メディアや雰囲気に想像力を奪われた人々が、他人の迷惑を顧みずに交差点を跋扈する光景が見られるではないか。
英雄犯の哀れ。
真のグロテスクを映像だけでなく心理的に表現している作品。 大量虐殺を英雄気取りで語り演じる年寄り勢。自身の孫にまで 虐殺再現場面を見せる愚か者が自分の犯した罪にえずき出す。 今さら「かもしれない」では100万人の亡者が浮かばれないが、 国を挙げてあの持て囃しぶりでは、本人達が自分のしたことを 重罪だなんて思う筈がない。監督は初め被害者側を取材するも 当局に断られ今度は加害者側にカメラを向け彼らに演じさせた。 映画の反響によりついに政府が大虐殺を認めるに至ったという、 何ともな衝撃作だ。米映画を賞賛し意気揚々と針金を這わせる 主人公の行動が怖いというより滑稽すぎて行き過ぎメイクにも 笑いを禁じ得ない。我は正しいと信じる行動が物々しく哀れだ。
凄い内容だが
事前にレビューを見過ぎて
展開が分かってしまっている自分がいた←
映画的なエンターテインメントは期待してはいけない
ドキュメンタリーとしては超絶に優秀な作品
(制作されるはずだった彼等プレマンが「期待する映画」自体は、「この映画」では要所要所で少し映されるだけ)
翻訳が悪いのか、はたまたワザとなのか字幕の言葉を追ってくだけだと彼等プレマンが「本当にただのバカ」にしか見えない
(表現が悪く申し訳ない)
「俺たちは残酷だ」「自分達は強い」「力を誇示しないとしけない」「俺たちは悪くない」「国際法はアメリカだって反しているんだ、我々も従う理由はない」
知性の欠片も感じられない生き物にみえる
これが途上国か…
現代日本に生まれて良かったと心から思った
最高のシーンは、最後に制作された彼等の「期待する映画」のオープニングかエンディングが流れるシーン
滝の前で、殺された共産主義者の英霊(?)が首から針金の輪を外し、アンワルと握手をし
「処刑してくれてありがとう。
おかげで天国に旅立てました。
1000回お礼を言っても足りないです。」
みたいな事を言う
最高に胸くそ悪い、グロテスクなシーンだった
いつものようにふざけてとぼけた感想をつぶやいてるがここは
なんと言っても後から参加した、飛行機で里帰りしてきた人。(家族連れで来たんだよね?)あの人の発言、行動に注視した。すごく頭のいい人、善悪の区別を客観的にできる人だと思った。 そんな彼も当時は仲間との殺戮に加わっていたんだよな。 共産主義?資本主義?軍事独裁主義?イスラム原理主義? 国や取り巻きに踊らされた。自分たちは英雄だと思い込もうとした。 気に入らないやつを共産主義者に仕立て上げて殺した。 その自覚はありそうだ。 たちの悪いのは知事、新聞社のおやじ、なんとか大臣。 自分の手を汚さずプレマンをおだて上げて気に入らないやつを減らして私利私欲肥やす。 手を汚した奴は悪夢にうなされながらも自分がいいおじいちゃんでいたい、裁かれたくない。 と、現在の日本にいるおれは好き勝手なことが言えてるけれど、おれがその時のその場所にいたら弾圧虐殺に反対して民衆を先導し立ち上がれたか?? 日本が戦争してるその場所にいたら徴兵拒否して大日本帝国は間違ってる、中韓侵略やめろ、って大声で言えたか?? そんな自問をしながら観た。 そして今もどこかで同じようなことが繰り返されてることを知っていて「自分のことじゃないから」って逃げてます。 この映画制作のスタッフも自分の名前をクレジットに出されると困るらしい。身の危険や今後の仕事に影響あるのか? それでも今の日本でこれを上映してくれる配給さん、映画館さんには感謝。
人間のクズさを思い知る一本。
「じゃあなんで殺された共産主義者の子供らは、復讐に来ないんだ?」 「人間の集団心理の恐怖」、この一言に尽きる一本。 インドネシアでかつてあった虐殺から、作品は作られているものの… 規模の差こそあれ、友達、職場、ご近所、ママ友の間で未だ行われている「排斥」というヒトの本能の恐ろしさばかりが際立ちました。 虐殺なんて、時勢のガソリンがかかっただけで。 火種は日常の、凡人たる我らの心の中に確かに有るんですよ… 貴方は、貴方が責める人の顔を直接見て、生で言い分を聴いてますか?
右も左も東も西も
1965年に起きたインドネシア9・30クーデターとその後の虐殺。本作は虐殺の加害者側に取材したドキュメンタリー。
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1965年といえば、インドネシアの国連脱退(イギリスとの対立)があり、アメリカのベトナム北爆開始があり、アルジェリアのクーデターがあり、中国文化大革命の端緒となった年だ。
それら諸々の流れに影響を受け、また影響を与えた事件だった。
国際的な因果だけではなく、インドネシア国内においても、政治的対立・経済的格差・宗教・文化・人種など様々な要因が絡んだ事件だった。インドネシア共産党(PKI)関係者等が虐殺された理由も一つではなく、地域ごとに異なっていた。
この映画では、それら国内外の因果は描かれてはいない。本作を観て、史実が分かる訳ではないと思う。
ただ、この事件を、知らないor忘れたor忘れた振りをしている人々に、思い出させるには、充分インパクトのある映画だったと思う。
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この映画の中で、アディ・ズルカドリ(虐殺の実行者)の言葉が印象的だった。
ある新聞記者が「(殺害が)こんな風に行われているとは知らなかった」と言う場面がある。それに対し、アディは「知らなかった筈はないだろう。我々は隠してなかったのだから」と答える。
あくまで新聞記者に対してのセリフであるが、50年近く忘れた振りをしてきた諸外国に対しての言葉のようにも思える。
虐殺があった事は、当時、日本を含めた諸外国でも報道されている。それにもかかわらず、各国黙認してきた。
1960年代の東西対立の中で、インドネシアが反共に舵を切ったこの事件は、西側にとって、渡りに船だった。だから、黙認というプロパカンダをし(英)、PKIの殺害リストを提供し(米)、洪水被害の名目で当時インドネシアへ資金援助(日)したのではなかったか。
西側だけではなく、中国も、事件前PKIに資金や武器を援助して親密以上の関係だったにもかかわらず、虐殺を逃れて中国側に亡命してきたPKIや華人に冷淡だった。
右も左も東も西も、知ってたのに知らない振りをした事件。
この事件を掘り起こせばインドネシアのみならず自国に都合の悪い事もポロポロと出てくるからだ。
本作は、インドネシア(映画に写っている側)への告発でもあり、忘れた振りをしてきた各国(この映画を撮ってる側&観客)への告発でもあると思った。
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この映画の中で、主役の隣人スルヨノ氏も、とても印象的だった。スルヨノ氏の継父は虐殺事件に巻き込まれ殺された。「誰も助けてくれなかった」と笑いながら泣きながら訴える。いまだ表だって当時のことを批判できない。だから笑いながら遠慮しながら言う。そして加害者と被害者が隣り合って暮らしている現状。
皆が忘れた振りをして、やり過ごしている影で、殺されても笑うしか無い人々が居るという残酷さ。
私は、スルヨノ氏のシーンが一番辛かった。
簡単に撮れるもんじゃないよ、これは
4月中旬に見てから2カ月がたつが、今も強く記憶に残っている。自分の中では、この数年に見た映画では台湾の『セデック・バレ』に並ぶインパクトがあった作品。 映画なんてものは、パーッと見せて、グイグイ引き付け、ドーンッとびっくりさせるかどうかでしょ。 この作品には、“ドキュメンタリー”なんだが、それがあるわけ。 多くの評者がいうように、何年に一本あるかないかの映画。かなり上映館も減ってきたけど、未見の人は急げ!
想像を絶した企画力
そんな印象の映画。
主題は奪い奪ってきた者達に焦点が当てられているが、観終わって記憶に強く残っているのは、奪われ、そして今も奪われ続けている者達の姿。糾弾することも出来ず、搾取する者から逃れる事も出来ない彼らの、笑顔の下にある渦巻く感情。
いやー兎に角観るべきかと!
前半は怠い感じだけど、布石と思って最後まで観れば、圧倒的現実を前に色々考えざるをえなくなるはず。
ドキュメンタリー
過去に大変な虐殺があり、今日加害者は英雄扱いをされている。
このことを知るためだけでも本作を観る価値があると思う。
虐殺という行為はとんでもないことだが、正当化されている状況が気持ち悪いし、レベルは違えど身近にも起こり得る状況だと思った。
インドネシアに住んでいる人の全てが加害者達を英雄視しているわけではないだろうし、本作の描いたものもほんの一面に過ぎないだろう。
政治色の強い事象だが、機会があれば生の声を聞きたい。
人間の多面性
これを歴史的な虐殺の戒めとして観るなら宇野惟正氏の言うように「全否定」となるのかもしれない。暴力で支配を繰り返してきた国の中心であるアメリカの監督がこの虐殺を安易に否定することは甚だおかしな事で、先ずはお前の国からだろうという話である。
しかし、この作品が残酷なまでに描きだしている「人間の多面性」は驚愕に値するものだ。本作の鑑賞後の感想として「酷い人がいるものね。」となるのか「自分もああなり得る。」となるのかでは全くこの映画の意味は異なるのである。鳥の怪我を心配した後に嬉々として虐殺の内容を自慢気に話す。この様なシーンが本作には何度も意図的に挿入されている。勿論、どちらが本物だ偽物だとかそんな単純な話ではない。どちらも本物であり人間とはそうゆう多面性の生き物だということをそれらのシーンは如実に表している。本作には「勝ったものが正義であって、勝ったものが秩序なのだ。」「お前にとっての地獄は俺にとっての天国だ。」という印象的な言葉が出てくる。その秩序が間違っているとは思いつつも、その現実を否定することは出来ない。事実そうであるのだから。これは他人事ではない。日本が万が一、第二次世界大戦に勝っていたら、自分もあっち側にいたのかもしれないのだ。状況によっては誰しもが無自覚に時代の「歯車」になってしまう。それは、とてつもなく恐ろしいことだ。
どんな極悪非道な人間でも優しい一面はあり、どんな博愛主義者にも醜い一面はある。スクリーンの向こうに映し出される人々を切り離して考えるのか、自分の延長線上に見るのか。安倍政権発足後、その歯車になりうる現実味を帯びてきてしまったこの時代に、大きな指針となる偉大な作品だった。
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