「悪の生まれる条件」アクト・オブ・キリング よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
悪の生まれる条件
この長尺の映画が伝えようとしていることは、案外にシンプルなものなのではないか?悪人とは、もともと悪人として生まれ育つのではない。彼を取り巻く環境や、彼にのしかかる権力の重圧。そうした諸条件によって、人は変哲のない善人から、歴史に名を刻むこととなる悪人にも変わるのである。
ドキュメンタリーの中心的な存在であるアンワル・コンゴ。彼は、当時1000人以上を殺害した加害者である。しかし、このドキュメンタリーの中で制作される映画では被害者を演じると、単なる芝居を超えた怯え、疲労困憊の表情を隠さない。しかも、彼はこのシーンをまだ自分の幼い孫たちに見せるのである。
自分が拷問を受ける立場だったらどうだろうか。自分の肉親が非人道的な扱いを受けたあげくに命を奪われたらどう思うだろうか。この問いに対する答えを、アンワルは被害者の役を演じることで、自らの心の中に見つけることになる。
もしも立場が逆だったら、自分の運命と相手を恨まずにいられるだろうか。自分の大切な人がそのような仕打ちを受けていたら、秩序や社会を信頼し、自分の未来を信じることが出来るだろうか。
自分が手を下そうとしている相手への想像。この想像を忌避することが悪行を生み出す。人間をこの想像から遠ざけるもの、人間から想像力を奪い取るものの正体こそ権力ではなかろうか。そして、この権力次第で、人間は悪にも善にもなりうる。
もちろんここでいう権力とは国家権力や暴力装置の権力に限られるものではない。人間の想像力を奪うもの、メディア、地域社会などのコミュニティなども含まれる。虐殺のない日本のような社会にも、メディアや雰囲気に想像力を奪われた人々が、他人の迷惑を顧みずに交差点を跋扈する光景が見られるではないか。