「正義面した映画製作者と観客が一番怖かった」アクト・オブ・キリング doronjoさんの映画レビュー(感想・評価)
正義面した映画製作者と観客が一番怖かった
この映画を一言で言い表すと「グロテスク」。
映像も分かりやすくグロテスクだし、社会や人の闇の部分をこれでもかと突きつけてくる様もグロテスク。
その衝撃により観るものに虐殺行為に対する嫌悪を呼び起こし、50年前の出来事を告発する映画とも言える。
また、人の行為の善悪は時と場所により相対化されるが、相対化されない・普遍的な感性が人間の中にある、ということを訴えている映画とも言える。
そんなことを思いつつ観進めるが、終盤に行くにつれ、この映画の撮影自体がグロテスクだと感じられるようになった。
それは、加害者と被害者の、昇華させることのできないトラウマをえぐりだす行為であった。
映画では最後に、とってつけ感に満ちた天国的なシーンで無理やり昇華された形になっている。
だが、現実の演者は救われないままだ。
ドキュメンタリー制作側は、こうなることは分かっていたやったはず。
そのことが、演者の表情を見ていると、グロテスクなまでに残酷な行為に思えてきた。
制作側は、自らの属する社会通俗的な"善"を紋所を携え、映画化・ドキュメンタリー化という行為を通して、罪人を裁いているかのように見える。
罪を自覚させる場所に追い込んでゆく、一見ソフトな方法によって。
しかし、それは、まさにインドネシアで虐殺者のやったことと同じではないのか。
どちらも無自覚なサディズムではないのか。
「共産主義者だから残虐行為をしてもよい」と「残虐行為者だから精神的に追い詰めてもよい」は限りなく相似だと感じた。
(悪いことをした人やその仲間は報復されてもしょうがないというような考え方は我々が憎んでいるテロの論理そのものではないか?)
もしそのことに製作者が無自覚で、観た者も無自覚であったら、それが一番怖い…などと考えはじめてしまったことで、映画の後味がよくなくなってしまった。
でも、後味の悪さは映画の悪さではない。
観る価値のある映画だと思う。
こんな映画は、もしかしたら生まれなかったほうがよかったのかもしれないが、できてしまったからには観ておいたほうがよい映画だと思う。