アクト・オブ・キリングのレビュー・感想・評価
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作りは安いのに中身はどぎつい。
演技もセットなどの作りも学芸会以下なのだが、
演者が本物すぎる。そして色々と気がつき始める。
人とはここまで残忍になれるし、それを美化したり
することもできる。インドネシアの独特な雰囲気と
独特な世界観が作品の不気味さをさらに濃くしていく。
また見たいとは思えないなぁ。
根っ子から腐っている
虐殺に関わった人間が政治家や地元の有力者となり、今も真実と向き合うことをしない。国営放送が殺人をあのように取り上げるとは驚きだ。カメラが回っているところで平気で市民から金を巻き上げるプレマン。自由の意味を完全に履き違えているのに、恐ろしさからフレンドリーな笑顔をつくるしかない弱者たちが痛々しく映る。
米国も日本も当時虐殺の事実を黙認した。この映画をみると、内側から虐殺を止める難しさと、国際社会の目がいかに重要かがわかる。
終盤リーダー格の老人が後悔や罪悪感を垣間見せるが、撮影が進むにつれ、客観的にどう見られるか意識したもののように思えてならない。
人類の発展のために、後世に残すべき、意義のある記録映画
人の複雑さが際立つ映画ー殺すという行為への考察
映像表現でまとめた論文。
虐殺を再現した状況を怖がって泣き叫ぶ子どもらを気遣う人物と、
1,000人殺したと自慢するだけでなく、
監督が「子どもには残酷すぎます」と止めるのを気にも留めずに、幼い孫に自分がやった拷問の場面を笑いながら見せる人物とが同じ人だなんて…。
どうして人が人を殺せるのか。そのことを殺した側はどう思うのか。
そのことに拘った映画のように感じた。
監督はインタビューの度に食い下がる。
「どうして?」
「あなたはその時どう思ったのか」
「今、どう思っているのか」
サイコドラマ、ロールレタリング、エンプティチェア…心理療法の技法。
被害者の立場を演じることで被害者の気持ちに気づいて、自分の罪を振り返るという効果を狙って、ロールレタリングは矯正施設でも取り入れられている。
監督がこれらの心理療法を知っていて、こういう映画にしたのかはわからないけど、アンワル氏にとってはそういう結果になっている。
アンワル氏の最後の、おもわずやってしまったことって、自分の意識が受け入れられない自分を知ってしまった時に良く出てくる身体反応。
自分の罪に向き合うことってこういうことなんだ。
この後、アンワル氏が自殺しないか心配になってしまった。
残酷な場面が出てくるのかと怖々観た映画。
グロい場面はフィクションの方がグロい。けれど実話の再現と思うと…。
尤も怖かったのは、アンワル氏が自分の孫に自分がやった拷問シーンや自分が殺される場面を喜々として見せようとしたこと。で、途中まで孫が笑っていたこと。
「殺し方は映画を参考にした」と言っていたけど、自分のやっていることも映画のヒーロー気分だったんだろうな。こうやって感覚がマヒしていくんだろうな。
社会の悪(共産党員)をやっつける。
それがやがて、力(暴力)で相手を傷つけることが面白くなって、濡れ衣を着せてまでという証言までも出てくる。
ー自粛ポリスやSNSでの批判・いじめ・パワハラ・モラハラ・セクハラ・DV・虐待・リンチと同じ。
アンワル氏ではない殺戮者が家族とウィンドーショッピングしている姿が何度も出てくるけど、家族は彼のやったことを知っているのだろうか?実際には手を汚していないけど、その行為による報酬で享楽している人々。実行していないからその罪は彼に押し付けることができる。でも得られる部分はしっかりと貰う。怖いな。
アンワル氏の行為を讃え、より”殺し”へと煽った人々は、今回はフォーカスされない。
唯一の笑いどころが、デラックス・マツコさん似のヘルマン氏の女装。
プレマンのリーダーでファシスト(殺人も実行)の彼がよくその役受け入れたなあ。アンワル氏の命令だから?
演技もそれなりに見られたし、本当に素人?と思っちゃう演技だったので、今ひとつドキュメント感に?がついちゃうのが惜しい。
私も、これをドキュメントと思わないことで否認しているのか?
「殺しと言う行為」
意義・意味を持たせることで罪悪感をなくせる。
意義・意味があればなんでも許されるともとれる。
でも、だんだん歯止めが利かなくなり、意義・意味があることにして行われる行為。
享楽として…。
色々な人の、そして彼らを許容している社会の闇について考えさせられる。
知っておくべき事実
1965年のインドネシア。
インドネシアの初代大統領スカルノ(デヴィ夫人の旦那さん)の親衛隊が軍事クーデター事件を起こした。後に「9・30事件」と呼ばれる出来事。
クーデター自体は失敗に終わったようだが、スカルノはこの事件を機に退任、クーデター首謀者のスハルト(少将)はその後実権を握り第2代大統領へ。そして、国内の共産党を徹底的に弾圧し、インドネシア共産党を壊滅へ追い込む。
その共産党弾圧の際に、100万人?(映画では100万人と言っていたが、人数は諸説あるらしい。)もの人達が殺されたようだが、その実行を担った「プレマン」と呼ばれる、日本で言ういわゆるヤクザ達。そのプレマンは何と、インドネシア国内では今も共産主義者を殺した「英雄」として扱われているらしい。
この映画は、そのプレマン達が過去の自分たちが行った虐殺の再現を映画として撮る、その過程を映したドキュメンタリー映画だ。
この設定自体がそもそもあり得ない。
普通は自分たちが行った虐殺を再現しようなんて人はまず居ない。
しかし、これは今でも社会的にはその虐殺が肯定されているインドネシアの社会背景と、登場人物が無類の映画好きという条件があってこそ実現したことだろう。
で、このプレマン達、ほんとどうしようも無い。
自分たちがどんな効率的な殺し方をしたかを嬉々として語る。虐殺のシーンを撮る際も、当時女をレイプしたとか、相手が14歳だとたまらないとか、聞いてて反吐が出るようなことを平気で語る。まぁ、ヤクザなので当たり前と言えば当たり前だけど。
しかし、主人公のアンワル老人だけは、映画の撮影を通して変わっていく。
自分が殺される側の人間を演じることにより、当時、相手がどう思っていたかを考えるに至り、徐々に罪の意識に苛まれていく。
最後、アンワル老人は話をしながら嘔吐するような仕草を見せる。
自分の行った行為の意味を理解し、そのことを身体が受け付けなくなった結果だろうか?
このシーンが、この映画の唯一の救いのように思える。
と言うのも、アンワル老人以外は、全く映画を通して変わることは無いからだ。
当たり前のように現在の生活に戻り、過去を振り返ることも無く、愚行を繰り返す。
今でもインドネシアではプレマン達が実権を握り、政治/マスコミ/裏社会など、社会の至るところに浸透している。
裏社会はどんな社会でも存在する。当然日本にもある。
祭りを取り仕切るテキ屋や、みかじめ料(場所代)を取る制度もある。しかし、それは通常表に出てくることは無い。必要悪ではあるが、社会のメンバー全員で表には出さないようにする。それを徹底する。
理由は、「そうしないと社会体制を維持できないから」だ。
必要悪(暴力的な行為)が当然のように表に出る、そんな社会に住みたい人は多くない。私もそんな社会はまっぴらだ。だからこそメンバー全員で隠す。「悪」というレッテルを貼ってまで徹底する。
インドネシアはそこが完全に反転してる。
必要悪ではなく、それが「正義」になってしまっている。
だからこそ、ヤクザがむしろ「英雄」になる。
日本で生まれ暮らしている自分の感覚とかけ離れた、あまりに異常な社会。
映画の中で、プレマン達は楽しそうに振る舞っている。しかし、その楽しさは薄っぺらい感じがした。本当に楽しんでるようには見えない。作中でも、「みんな本当はくそくらえ」と思ってる、みたいなことを誰かが言っていた。
こんな社会では、ヤクザにでもならないと良い生活が出来ない。しかし、ヤクザになって良い生活が送れるようになったとしても、過去に罪悪感を感じるような行為を少なからず行っているはずだ。罪の意識が無いならばかなり人格が壊れていると思うし、感じれば感じたで罪の意識に苛まれる。
「幸せ」については人によって考え方が違うが、私は「幸せ」はいわゆる「普通の(平凡な)生活」の中にあると思っている。そして、「普通の生活」は自分だけでなく社会のメンバー全員の協力があって初めて成り立つモノだと思う。
なので、周りにそんな日常的に暴力を振るう人や罪の意識に苛まれてる人、汚職を当たり前に行うような人がゴロゴロいる社会で、「普通の生活」を楽しく送れるとは思えない。
インドネシアという国で、この状況を改善する道があるのか?
今はその道が全く見えないんじゃないだろうか?
つまり、「未来に希望が見い出せない」。
それが、プレマン達の薄っぺらい楽しげな雰囲気や、映画全体の重苦しさに繋がっているように思える。
しかし、今まで知らなかったインドネシアの問題点を知ることが出来たのは自分にとって意味があった。
どうせ日本のマスコミではほぼ扱わないだろうから、映画を通して知るべき。これは人ごとじゃないんだから。
立場が変わればどんな人間でも同じことをする可能性がある。加害者にも被害者にもなる。
だからこそ、この映画は観るべき価値がある。
また、当時の日本(佐藤栄作政権)は、この虐殺した政権を反共産党という理由だけで支持したことも覚えておくべきこと。
歴史に残る作品
加害者側の声を記録として残したという意味ですごい作品。
虐殺がいかにして起こるかについての示唆がある。
虐殺を命令したはずの権力側の人物たちが、こんなことをしているとは知らなかった、こんなひどいのは真実じゃないと、自分はこんなことは命じていないと言い訳するのに対し、知らないのはおかしい、これが命じられたことだから映像として残してもなんら問題ないと思う実行者たちとのちぐはぐさを、映像として残したのがすごい。
おぞましい映画。
おぞましい映画。インドネシアの歴史に疎いこともあり信じられないことが沢山あったが、何よりも不思議なのは何故この出演者達はこんな映画を作ること(とそれに出演すること)に同意したのだろうか、ということである。満員札止めだった。
とんでもなくシュール笑
まず真面目な感想を抜きに印象を言うと、とんでもなくシュール笑
日本人視点で見ると、非現実、絵空事、な登場人物たちである。
まあ、日本の戦前くらい?か、いや、ほんと感想言うと、差別発言連発になりそうなのでやめとく。。
人にとっていかに教育が大事か。
ときどき挿入されるなんでもない雑然とした町の風景が哀しくも美しい。
映画夢心地レビュー
素晴らしい作品の完成度。深く心を奪われ圧倒され胸が張り裂ける今の時代に存在すべき重要な作品。感情を力いっぱい揺さぶられる。抵抗できない力強さ。忘れがたい!人は望む人生を送れるわけではない、夕食を食べる店や洋服を選んだり、学校や会社を選んだり、できるのはその程度だ。誰と出会うか、なにが起こるのか、人は悲しいぐらい選べない。こんなにも選べない中で、すこしも望んでいなかった試練と対峙することもある。すごい映画を観たという感動がこみあげてくる。今、観るべき傑作!
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興味深いけど観るのはつらい。
被害者の息子に被害者役をやらせる場面は観るのがつらかった。
「1度しかできない。」「俺にはわかるんだよ。俺が罪人だとゆうことなのか?」
加害者側の言葉に臨場感がありすぎて作品の見事さに感服いたします。
法で裁かれるよりも苦しい罰
自分がアメリカ映画や音楽を平和の象徴として愛してきた若者だったので、主人公たちのように、欧米のエンターテイメントを規制し、国民が貧困にあえぐような政策をする共産主義撲滅のための人殺しを、「人民を解放するために必要なことだ」と正当化することなど、簡単に出来てしまったのではないかと思った。虐殺の様子の演技は稚拙でバカバカしいのだが、それでも段々と上手になって行き、上手くなればなるほど本人たちが自分の行動を正当化できなくなっていく様が非常に興味深かった。この人たちは殺人を法律で裁かれることはなかったが、死ぬまで罪の意識にさいなまれるのは、法で裁かれるより辛い罰だと思った。
罪と罰
1960年代のインドネシアで起きた独裁政権による大虐殺。
それも恐ろしいが、もっと恐ろしいのは、関与した者たちが何も罰せられず、お天道様の下をノウノウと歩いている事だ。
日本で言うならば、殺人も平気で行う凶悪ヤクザ一味が政治のトップに居るようなもの。
映画は、彼ら主演で当時の再現映画を撮るという名目で密着しているのだが…
彼らには罪の意識は微塵も無い。
それ所か、自分たちを英雄と思い、虐殺も英雄行為。
誇らしげに語る姿を見よ!
醜悪極まりない。
再現演技は愚の骨頂。
どんな理由であれ…と言うより、殺人は必ず罰せられなければならない。大虐殺など問答無用。
ラストの“吐き気”は、多少でも罪の意識を感じたなど擁護出来るもんじゃない。
罪に押し潰され、苦しめ。
カストロやゲバラのように・・・
古今東西、このような暴政者、悪政者は数多くいた。
カストロやゲバラのように血の粛清を繰返したにもかかわらず、
英雄のまま伝説として残るのは稀で、基本的には必ずツケがまわってくる。
本人自体に?子孫に?国家に?歴史に?
この出演者達も同じだ。
時代場所に拘らず、人間は誰でもこうなる可能性があるということ。
(道徳、教養、常識、愛情なんて無力だ!)
10年ほど前にも、テーマは似ているドキュメンタリー作品があった。
『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち 』
虐殺のアクトを演じさせるのは同じ手法。
こちらの虐殺者は10代の子供たちなので陰鬱度は高い。
この手の作品を命がけで製作した方々には、ホントに頭が下がります。
自分も含めて、傍観者や観察者、学問として捉えたい輩、
単に奇人変人や悲惨な出来事を欲する観客に向けて、
この殺害行為に対して、どういうアクトをするか?
Act of killing
[この殺害行為に対して、あるいは身の回りで起きている事に、どんなアクトをしてますか?]
と、勝手に副題をつけてやった・・・・ら吐き気がしてき・た・・オエッ!
知らなかった史実
インドネシアが大量虐殺してたなんて
全く知らなかった、無知すぎた
バリ旅行を楽しんだり
テクノ的なエスニック音楽聴いたり
してたのに、赤狩りには全く知識なく。
当時の日本も当然知っていたはずで
黙認してたのだろう
正義面した映画製作者と観客が一番怖かった
この映画を一言で言い表すと「グロテスク」。
映像も分かりやすくグロテスクだし、社会や人の闇の部分をこれでもかと突きつけてくる様もグロテスク。
その衝撃により観るものに虐殺行為に対する嫌悪を呼び起こし、50年前の出来事を告発する映画とも言える。
また、人の行為の善悪は時と場所により相対化されるが、相対化されない・普遍的な感性が人間の中にある、ということを訴えている映画とも言える。
そんなことを思いつつ観進めるが、終盤に行くにつれ、この映画の撮影自体がグロテスクだと感じられるようになった。
それは、加害者と被害者の、昇華させることのできないトラウマをえぐりだす行為であった。
映画では最後に、とってつけ感に満ちた天国的なシーンで無理やり昇華された形になっている。
だが、現実の演者は救われないままだ。
ドキュメンタリー制作側は、こうなることは分かっていたやったはず。
そのことが、演者の表情を見ていると、グロテスクなまでに残酷な行為に思えてきた。
制作側は、自らの属する社会通俗的な"善"を紋所を携え、映画化・ドキュメンタリー化という行為を通して、罪人を裁いているかのように見える。
罪を自覚させる場所に追い込んでゆく、一見ソフトな方法によって。
しかし、それは、まさにインドネシアで虐殺者のやったことと同じではないのか。
どちらも無自覚なサディズムではないのか。
「共産主義者だから残虐行為をしてもよい」と「残虐行為者だから精神的に追い詰めてもよい」は限りなく相似だと感じた。
(悪いことをした人やその仲間は報復されてもしょうがないというような考え方は我々が憎んでいるテロの論理そのものではないか?)
もしそのことに製作者が無自覚で、観た者も無自覚であったら、それが一番怖い…などと考えはじめてしまったことで、映画の後味がよくなくなってしまった。
でも、後味の悪さは映画の悪さではない。
観る価値のある映画だと思う。
こんな映画は、もしかしたら生まれなかったほうがよかったのかもしれないが、できてしまったからには観ておいたほうがよい映画だと思う。
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