郊遊 ピクニックのレビュー・感想・評価
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なぜこの人はこうなったのか
そのことをずっと考えていた
監督の他の作品をみれば、わかるのかもしれない。
マンションの看板をあのように路上で立ち続け持ち続ける仕事があるのか、あれで二人の子を育てているのか、頭も良さそうなあの父親がどうしてこのような人生歩んでいるのか、謎の女性たちに解き明かすヒントがあるのか。スーパーの女性がとても気になった。
ツァイミンリャン監督の特集があればまとめで見てみたい。
現代社会の皮肉
2018年のK'sシネマ「台湾巨匠傑作選」最後の鑑賞作品となった。ツァイ・ミンリャンの作品を観るのは初めて。
この監督の作風などの予備知識は全くない状態での鑑賞であったが、冒頭の髪を梳く女の長廻しを見つめながら、このような長廻しがこの後も続くことへの覚悟を決めた。
しかし、ラストの長廻しを除けば、途中いくつかあったものは気にならなかった。むしろ、スクリーンに映るものの細部まで余裕を持って観ることができる、良いリズムに感じた。
そして見つめる画面には、現代社会の矛盾が皮肉たっぷりに描かれている。
ものを食べ、排泄し、身体を拭き、歯を磨く姿が多く描かれている。観客は、我々の生活というものがどのような行為に時間を費やされているのかを改めて知ることとなる。
チキンのもも肉を頬張る父親。スーパーの試食コーナーを渡り歩く幼い兄妹。葦の生い茂る空き地での立ち小便。
中でも、親子が公衆便所の洗面台で歯を磨いたり、顔を拭いたりするシーンと、妹がスーパーの女に、やはりトイレの洗面台で髪を洗ってもらうシーンが印象に残る。現代社会の皮肉がこの二つのシーンに凝縮されている。
貧しい家族が無償で利用できる社会資本があるから現代社会は豊かだと観るのか、それとも、誰でもが無償で利用できるほどのものなのに、それを所有することが叶わない貧しさを抱えているのが現代社会なのだという皮肉ととらえるのか。もちろんツァイ・ミンリャンの視点は後者であろう。
試食や廃棄弁当の問題にしても同じ構図である。食料品店は、販売促進を目的として食べ物を無料で配り、まだ食べることのできる食品を、管理上の問題で廃棄処分にする。有り余る食料が存在するにもかかわらず、それを購入することの出来ない人々もまた同じ空間に存在するという切なさ。
我々が生きている社会の物質的な豊かさは、誰にでも開かれているという訳ではないという現実を、この映画は観客に見つめ続けさせる。
言葉で表せない
よくわからない。見ている最中も、見終わってからも、とにかくよくわからない。設定もお話しも演出も本当にわからないことだらけ。でも、それをもって駄作と言えないのがツァイミンリャン作品の最たるところ。作家性の強い作品は理解するとか感じるとか、そんな生易しい見方じゃなく、徹底的に考察しなければいけない。まだ、考察どころか咀嚼すら出来てないけれど、たまには、こういう映画に自分の時間を割いてもいいはず。
映画はこんなことも出来るから素敵なんだと改めて思えた。
長い1カットの持つ重み
蔡明亮監督の「郊遊 ピクニック」を見た。中華圏の映画監督の中ではただ一人、商業映画とは一線を画して一貫して純粋芸術映画を作り続けている蔡明亮監督の最新作にしておそらく最終作品だ。蔡明亮の作品を見たことのある人間が誰しも感じることとして、理解可能であろうか、最後まで画面を見続けることができるだろうかという不安を持って映画館に足を運んだ。実を言うと、なかなかそこまで踏み切れなくて、同様の不安を抱いている知人とお互いに背中を押しあうことによって何とか映画館までたどり着けた。
覚悟を決めていたことがよかったのか、幸いにもうとうとすることもなく、退屈することもなく、2時間以上の大作を楽しめた。映画は小学生前後の二人の小さな子どもをかかえた半失業者の生活を淡々と描いている。彼は人間プラカードとして通りの真ん中で一日中立ちっぱなしでいることによりわずかなお金を稼いでいる。その間、子どもたちはスーパーで試食をしたりして過ごしている。そして、空き家や廃墟で眠る。それに3人の謎の女性がからむ。冒頭、寝ている子どもたちを見続けている女性。母親であるのかもしれないが、それ以上の説明は一切ない。女の子の髪を洗ってあげるスーパーの店員。彼女の立場も一切明かされない。ヒントさえもない。そしてラストで涙を流す女性。恋人なのか、元妻なのか、こちらも何の説明もない。3人ともに子どもたちの母でもあり、男の妻でもある。「生み」「育て」「恋愛」を表しているのかもしれない。
映画では眠る場面、ものを食べる場面、排尿する場面がやたらと登場する。後は体を洗う、拭く場面だ。そして男が人間プラカードとして金を稼いでいる場面。つきつめれば、人間は食べて、排泄し、眠るだけの生き物だということだ。それだけでは現代生活は営めないので金を稼ぎ、ある程度の清潔を保つ。
そして舟。舟は今の生活から抜け出す脱出の象徴でもあるし、死出の船出の象徴でもある。大雨の日に、男は子どもたちを連れて舟で旅立とうとするが、スーパーの謎の女が子どもを救い出す。それにしても映画の中の天候はほとんどが雨だ。
1つのカットがやたらと長いのが蔡明亮監督の特徴のひとつだ。そして台詞は極端に少ない。監督から観客に与えられる情報量は非常に乏しい。音楽もない。その代りに雨の音、車の音をはじめとして外界からの音は妙にリアルである。
1カットが長いことは当然予測されたので、カット数を数えながら見てみた。映画を見ながらのカウントなので正確ではないが74カットだった。138分の映画だから1カットが平均でも2分弱ということになる。実際には短いカットもあるので、長いカットはどれほどになるのか、気が遠くなるほど長い。その中で私が気に入っているシーンが3つある。一つは、男がキャベツを食べるシーン。子どもたちがキャベツに目鼻をつけて一緒に寝かせているのだが、そのキャベツを抱きかかえたり、顔をすり寄せたり、そしてついにはかぶりついてしまう様子が延々と1カットで描かれる。それは男の女に対する愛とも憎しみとも言い表せない感情が表される場面だ。あとの2つは最終の2カット。73カット目と74カット目だ。73カット目では男と女は向かい合うのでもなく対峙しているが、その長い長い1カットの間に女の目からは涙が流れやがて消える。その間、男はただ見ているだけだ。そして最終の別れのカット。ここでも女が立ち去るまでの長い長い時間、そして男がその事実を受け入れて立ち去るまでのさらに長い時間が描かれる。普通の映画のように感情いっぱいで描くのではなく、音楽で盛り上げることもなく、ただ淡々と時間の経過とともに1カットで見せている。実際、愛にも憎しみにも別れにも一言では言い表せない重い重い感情がある。決断にも受け入れにも時間がかかる。この1カットの持つ重みはその人生の決断の重みであり、男の愛憎の重みであり、そして何よりも底のない孤独の重みである。
映画のあり方の一つ。
台北の美術館にて鑑賞。
フロアに寝転がって観てきました。
これでもか、まだ切り替わらないか、と感じられる、固定カメラ・長回しの多用、極力抑えられた台詞。監督の、やりたいことをやる、俺はこういうのが撮りたいんだ、という気概は感じられた。
…が、うーん、普遍性を有する物語とは言い難く、色々唐突感が否めず。観客に丸投げ?、みたいな。
それが監督の意図していることなのかもしれませんが、私は馴染めませんでした。
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