「俺はこれを「脳内ビバ昼」と呼ぶね!」インサイド・ヘッド CYNDYさんの映画レビュー(感想・評価)
俺はこれを「脳内ビバ昼」と呼ぶね!
「ミネソタからやってきたの。」そう、あの寒いところね...。と言えば、僕らの世代は何がなくてもビバリーヒルズ青春白書。
双子の兄貴のマジメ前向きブランドンと妹のヒネクレブレンダは、表裏一体/インサイドアウト。まさにこの映画の原題「Inside Out」である。そして、クラスの自己紹介で泣き出してしまう彼女である。
「この映画は、あなた自身の物語」というのが監督のメッセージであり、宣伝キャッチフレーズだったかと思う。冒頭のビデオメッセージでもそう言っていた。少し言い訳がましいほど。しかし・・・。
私は、この映画を自分の感情として涙を流すことはできなかった。
ただただ、娘たちの事だけで涙が出た。
娘にこんな思いをさせていなかっただろうかと、そんな気持ちが自分を苛んだ・・・。
そこにこの監督の稚拙さがあるように見えてならない。実は、この監督の作品、「Up」とか・・、あまり真剣に見ることができなかった過去がある。
ディズニー/ピクサーにはここ10年以上注目している自負があるが、その理由の自身のインサイドを解き放ってみようと思う。
物語は。
表の主人公は、ミネソタで親の愛を一身に受けて素直に育った前向きホッケー好きの女の子ライリー。
しかし、両親の独立自営で住み慣れたミネソタを後にカリフォルニアへ向かう家族。まだ大人ではないが、もう子供でもいられない自我の芽生えと相まって、よき不安を禁じ得ない引っ越しから話は始まる。
そうした不安、脳内の動きを実に正確に擬人化し表現した点は素晴らしい。
細部やメカニズム、そして潜在意識の役割まで、本当に正確に擬人化し、うまくストーリーに組み込んでいる。
その分、前半が冗長で、飽きが来ることが否めない。
僕は、図鑑を読みに来たわけではないのだ。
そして、何よりも気になったのは・・・。
頭の中の主人公「喜び」が、「悲しみ」を無意識に明るくネグレクトしているように感じてしまう。
もちろん、彼女は、想定外のことを当初してしまい、「なんでいうこと聞かないの?」的な観客にイラつきを感じさせつつ、最後まで説明を聞かない喜びにもいらだちを残す伏線が敷かれている。
これは、本来彼女が、マニュアルを熟読し、各部の意味役割を知識上最も知る立場にあり、「悲しみが涙で昇華される」というメカニズムを体現するという重要な役割を担っていることが理解されるにつれ、観客に安心感と方針を理解させるという作りなどだが。
一見すると何かいじめのようないやらしさがあり、とても嫌な気分になった。
もちろん、この映画はいい映画である。
成長に伴う不安定さが、脳内の機能を擬人化して描かれている。
そして、誰もが不安への記憶をいつか和らげる力を持つということなのだけけれど・・・。
ストーリーとしては、ボーイミーツガールもなければ、根性・努力・友情もない。
そう。
ただ、他の語り方はなかったのか?とも思うのだ。
思うに。
ピクサーとディズニーの違いはなんだろう。
1990年台半ば、前身ILMのCG部門独立会社ピクサーは、トイストーリー以降はジョンラセターのクリエイティビティにより、瞬く間に配給契約のみの関連資本会社ディズニー本体を売り上げで追い抜く偉業をなす。
ひとえにジョンラセターの偉業である。
ここに、ラセターのクリエイティブの鉄則が生まれる。
・予想外で夢中になれる展開
・悪役でも登場人物は魅力的
・ストーリーもキャラクターも魅力的であること。
そして2006年を経て、ディズニーはキャラクター切り売り多売方式による限界にてアニメ部門の凋落から、ピクサーの売り上げに注目しつつ、いくつかの内的トラブルを経て、独立寸前のピクサーを円満買収。ラセターをディズニー/ピクサー両部門のクリエィティブ責任者に据える。
活躍は目覚ましかった。
2006年以降のディズニー本体アニメーション映画は、ぐんぐんそのクオリティを挙げていく。
「レミーのおいしいレストラン」、そして明らかにクオリティの異なる高さの「プリンセスと魔法のキス」、そして「ラプンツェル」とつながる。
この初めの取りかかりとして、いくつかの安易なキャラクター続編DVDなどは、そのクオリティの低さから、「企画中止」としていた経緯があった。
要は、ラセターがクオリティコントロール(QC)の役目として重要だということだ。
「アナと雪の女王」のクオリティは必然と言えるが、日本での特殊事情は松たか子の歌声だろう。
あれがなければ、国内であれだけの騒ぎにはならない。
さて、しかし。
ディズニー映画には独自の強みがある。
ウォルトの死してなおその偉業を保つ合言葉。
それは、「夢はかなう。願い続ければ。」
このIf節に共感するからこそ、何度もの経営危機、産業構造の変化にも耐ええてきたビジョナリーカンパニー。
そして、ディズニーアニメの神髄はこうだと勝手に理解する。
「It's a small world」世界は一つ。小さな世界。
ここまで。
そのアニメーションの文脈に数々の差別を段階的に乗り越えてきた経緯を見る。
アナ雪の本当のテーマは「男女ではない愛」。
より多くの方々に受け入れてもらうことの慎重さと大胆さをその文脈に感じるのだ。
一方、ピクサーは、そもそもCG会社である。
その脚本の分業方法(コメディパート、シリアスパートなど12の部門で別れて作成する)と、アイディアを極限まで出しあい、フラットに受け入れる会議方法(ブレインストーミングに近い方法。ヒエラルキーのバイアスを無くし、上下関係に寄らない意思決定を保障)は、一定の意義があるが・・・。やはり創作物はロジックだけでは生まれない・・・。
ラセターは自身のシリーズ監督(たとえばトイストーリー4)には、自身の仕事して対処するだろうが、今や全部門のクリエイティブQC
責任者である。ともすれば、既に20件近い案件が動いているのではないのではないだろうか?だとしたら、さしたるポリシーもなく、ロジカルな手法で企画を進めるピクサーには、自身の監督作以外は基本的には別会社であり、QCのみのチェックで、あとは、権限移譲だと思われる。
それならば、ポリシーもあり、本社本体でもあるディズニー作の方が目が行き届くのではなかろうか?
この違いこそが。
ラセターの三原則のこだわりと、ウォルトのポリシーのない世界。
これこそが、妙にマニアックで脳内擬人化には労を凝らしているものの、本当の彼女の人間としての魅力を引き出すことができなかったことにつながったのではないかと、勝手に思う次第である。
最後に。
途中、イマジネーションの象徴。ピンクの象(熊のぷーさんの「うぞう」だ!」が、トリックスターとして活躍する。
弱気心を持った想い出のある人ならわかる空想の逃げ場だ。
ストーリーとして、シナリオとして理解できる彼の消滅のクライマックス。
記憶の捨て場で「喜び」を助けて消えてしまう場面。
僕の前の席に座る男の子が。
「どこに行ったの?」と母親に聞いた。
こんな子供に不安を抱かせる悲しすぎるシナリオに怒りの涙が出た。