「よくばりブラッド・バード」トゥモローランド 鰐さんの映画レビュー(感想・評価)
よくばりブラッド・バード
しなやかな身体性を活かしたアクションとクリーンにドギツいギャグはいかにもディズニー(/カルアーツ)育ちの鬼子の系譜、ブラッド・バード。
今どき「信じれば夢は叶うんだ」もないと思うけれど、無知ゆえに無限の可能性を持ったブリット・ロバートソンとかつてその可能性を信じ夢破れたジョージ・クルーニーの対比は配置として手堅い。その二人の結節点となるラフィー・キャシディの横紙破りっぷりもとても爽快だ。この三人のチームなら、たしかに願えば叶いそうにおもう。
そんな三人のリズムもタイトルマークである「トゥモロー・ランド」に来た途端に狂ってしまう。
この破調を作品の思想性に求めるのは、やや安易にすぎる。もっと根幹的に、脚本がいけなかった。
ミエヴィルの『都市と都市』を彷彿とさせなくもない二重世界「トゥモロー・ランド」の設定、危機に瀕する現実、ロバートソンのパーソナルなストーリー、クルーニーとキャシディの愛の物語、悪役の物語……130分を費やしてもなお『トゥモロー・ランド』に内在する幾筋ものマイナーストーリーを語りきれなかった。
これは単に詰め込みすぎなところが半分、バードの手癖的なところが半分。舞台設定や悪役のバックボーンを必要以上に切り捨てる傾向は無神経さというより、純粋に悪意なんだろう。そう思って観てみると、アクションシーンで淡白に虐殺される無辜の一般人たちすら彼の冷笑の対象に見えてくる。
そもそもラスボス倒した後に沸いてくるトゥモロー・ランドの住民たちはなんなんだ? いままでどこに隠れていた? 手下が二三人しかいないようなリーダーの暴走をただせない上にそいつをぶっ殺した部外者をいきなり新しい親玉に挿げ替えちゃうとか、未来の地球を託すにはかなり不安な意志薄弱さだぞ?
ディストピアSF批判はどこまで本気で受け取っていいのかわからない。悪役の最期(自分の”思想”に文字通り押しつぶされる)はもはやギャグで、これをもって判断材料にすべきかどうか。
瑕疵はあげればきりがない。それでも作品として(物語としてではなく)救いがある代物にかろうじて仕上がっているのは、キャシディとクルーニー(トーマス・ロビンソン少年)のボーイ・ミーツ・ガールが一本通った筋として魅力的だから。
あんなに直截的な「イノセントな少年時代との別れ」もなかなかお目にかかれない。
あ、あと、ラストカットの清冽さもすばらしいよ。