太秦ライムライト : インタビュー
5万回斬られた男・福本清三、キャリア50年の大ベテランが語る男の美学
今でも分不相応だという思いがある。斬られ役として東映の時代劇を中心に映画、テレビドラマの屋台骨を支えてきた福本清三。50年以上のキャリアを誇る大ベテランが初めて主演した映画「太秦ライムライト」は、まさにその生きざまを投影している。「関わった皆さんがちょっとでも喜んでくれて、やって良かったと思ってもらえるのが一番。いまだ落ち着きまへんわ」と恐縮することしきりだが、常に謙虚さを忘れず、求められた芝居と真摯に向き合い続けた男の美学がのぞく。(取材・文・写真/鈴木元)
福本は1959年、15歳の時に東映京都撮影所に入所。だが、役者になることなど考えてはおらず、京都に映画会社の撮影所があることすら知らなかったというのだ。
「日本海の産業も何もない漁師町(兵庫・香住町)だったので、僕らみたいなのは自活せないかんのでね。たまたま親せきが京都でお米屋をやっていて、親も安心やから行けとうことで京都に来ましたけれど、毎度おおきにっていうのが恥ずかしくて言えなくてね。イヤでイヤで何かほかのところないかなあと思っていた時に、これも親せきなんですけれど東映に出入りしている不動産の人がいて、何となく連れて行ってもらったのが撮影所。そこからが始まり。何も分からずにね」
俗に大部屋俳優と呼ばれる役者は着付けやメイク、カツラなどの準備はすべて自前で行う。福本も数日間の“講習”を受けてすぐに現場入り。20代後半からは斬られ役専門として時代劇、現代劇にかかわらず数多くの死にざまを見せ「5万回斬られた男」の異名を持つ。そこにもたらされた主演映画の企画は、青天の霹靂(へきれき)にほかならない。
「思ってもいなかったし、今でも信じられないですよ。まずビックリで、僕らにしてみれば、主役は二枚目で人気があって芝居ができるという概念がありましたから。話をもろた時はとんでもない、ありえんと思いました」
太秦の撮影所に所属する大部屋俳優の香美山は、半世紀以上続いたテレビの時代劇が突如打ち切りとなり、仕事が激減。そんな折、駆け出しの女優・さつきと出会い、彼女に懇願され殺陣の稽古をつける師弟関係を結ぶ。さつきはスターへの階段を上がり東京へ行くが、その間に香美山は体力の限界を感じ引退を決意する。
チャプリン研究家として知られ、この作品のために取材を重ねた大野裕之氏による脚本は、まさに福本の半世紀余りを凝縮。周囲の勧めもあって出演を決めたが、その後もしゅん巡、かっとうが撮影中から現在まで続くことになる。
「普通だったら主役をやらせてくれって言ってもやらせてくれることはない。そう考えたら、断るのはアホちゃうかと言われて、皆に後押ししてもらってやることに決めたんですけれどね。やっても地獄、やらんでも地獄やったら、やって地獄見るかっちゅうて。でも、返事をした後からまた考えるわけです。たくさんの人に迷惑をかけるわけにいかんし、でき上がってもどこの映画館が上映してくれるのかとか、そんなことまで全部気になるわけです。眠れん夜が続きました」
香美山が、主演俳優の尾上清十郎(小林稔侍)に斬られた後、「斬られ方がうまいヤツは芝居がうまい」と、愛用の木刀をプレゼントされる印象的なシーンがある。これは福本自身が、故・萬屋錦之介さん(当時は中村錦之介)に言われた言葉だという。
「僕はそんなことあらへんと思ったんです。ただ自分なりの解釈で、斬られてから、現場に立って、アクションを起こして倒れるまでは自分の芝居やと。同じおなかを斬られても1人1人表現が違いますよね。皆で研究し合って、主役の邪魔にならんように何秒くらいの死に方をすればどう映るかということを瞬時に演じるわけですから。錦之介さんが言わはったんはそういうことやと理解したんです」
5万回斬られるだけでも途方もない数だが、斬られてから倒れ、こと切れるまでの過程はすべて違う。そこに至るまでに考える過程はその数倍に上るだろう。ブリッジをするギリギリまで体を反らせる“海老反り”など、そこに斬られ役の矜持(きょうじ)がある。
「死に方に手を抜いたらあかんということですよね。痛くないように死のうと思ったらなんぼでもできる。でも、見ている人がなんやねんっていうことを僕らがやったらいかんのです。感動するというのは大げさやけれど、あっと思ってくれるような。少々痛くてもそれを味わうくらいの倒れ方をせないかんということです」
だが映画同様、現実にも時代劇は少なくなり、復活の兆しは見えない。時代劇で育ち、その盛衰を見てきたからこそ、香美山と同じように憂いも感じている。
「今の人はこれが当たり前やからそう感じないかもしれないけれど、僕らは全盛期を経験していますから、それがこれだけなくなるとは夢にも思っていなかった。余計グッとくるわけです。時代劇がだんだん減ってやくざ映画になって、また盛り返した波があったから、またいつか返ってくるんじゃないかと思っているんですけれど、なかなか(波が)来んね」
一方では、2002年に公開されたハリウッド製作の時代劇「ラスト・サムライ」で注目を浴びた。主演のトム・クルーズをはじめ渡辺謙、真田広之らと並び、寡黙な侍として存在感を放った。撮影中に60歳の“定年”を迎えているが、その体験を照れ臭そうに振り返る。
「初めて誕生日をして(祝って)もらいましてね。昼ご飯の時にでかいケーキが来て、『ハッピー・バースデー』ですよ。そうか、誕生日かって、僕も忘れていたくらい。トムさんからもプレゼントをもらいました。それにレッドカーペット歩いたり、あっちは飛行場までリムジンでっせ。確かに人のできんことをさせてもらいましたけれど、僕には似合いまへんがな。後で考えればすごい思い出というか、お金では買えない経験をさせてもらいました」
今も現役バリバリで、俳優としての活動とは別に殺陣技術の発展・向上を目指す「東映剣会」の会長を務め、時代劇イベントの開催から子ども向けのチャンバラ教室や役者志望の若者を対象としたワークショップまで、伝統を継承させていくための努力は惜しまない。
「なんぼ時代劇が(指先を下に向け)こうなっているというても、絶やすわけにはいきまへんのでね。最近は女性でも剣会に入りたいという子らがいて、これから1人でも2人でも増やせていけたらと思っています」
その意味では「太秦ライムライト」は格好の教材かもしれない。既に地元の関西では先行公開され好評を得ているが、本人は今なお落ち着かないという。
「自分の器量は分かっているし、何もでけてへんから。監督の落合賢さんをはじめとしたスタッフの皆さんに助けていただいて、ありがたいことですわ。今でもお客さん来てくれるんやろかって、そんなことばっか思って、神経的に参っていますわ(苦笑)」
出てくる言葉は謙虚なものばかりだが、その心意気には熱いものを感じた。いつかまた時代劇の隆盛が訪れ、その時に福本が後進たちとともに縁の下の力持ちとして輝きを放つ姿が見られることを期待したい。