「「たかが世界の終わり」の続きみたいな話」トム・アット・ザ・ファーム つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
「たかが世界の終わり」の続きみたいな話
田舎では同性愛者に対する風当たりは厳しい。
トムが町の人にアガットさんの客人なんだろ?と言われる場面がある。彼らにとってはアガットの客なのか、同性愛者であるフランシスの客なのかは大きな問題なのだ。
そんな町で、フランシスは誰からも相手にされず孤独に生きている。彼の暴力性のこともあるだろうが、おそらく同性愛者であると噂が立っているのだろう。
町の人々や母親に自分の性的嗜好を秘密にしているだけでなく、弟のギョームにも秘密にすることを強要している。母親が喜ぶからと言うが、どこか同性愛者であることを恥じているようでもある。フランシスの場合は相手が女性でも大丈夫だからかもしれないけれど。
それでも、同じ同性愛者であるトムに対する気持ちは強い。母親と農場のために離れられない監獄の中で増していく孤独は、抑えられない感情としてフランシスの中で熱くなっていくのだ。
主人公トムは冒頭で、失った恋人の代わりになるものを探さなくてはならないと書いている。
葬儀に出るためギョームの実家を訪れ、温もりや思い出に触れることがその行為だが、そこで兄フランシスと出会うことになる。
フランシスの暴力的で高圧的で支配的な、暴れる子牛を押さえつけて御するようなアプローチに当然逃げ出そうとするものの、ギョームの面影をフランシスの中に見たトムは徐々に受け入れていく。
田舎で寂しくすごすフランシスの孤独は、同じ同性愛者のトムにはよくわかる辛さなのだろう。
野蛮な男に対する同情は、ギョームの身代わりを求める行為なのか、新たな愛の目覚めなのか、監督のグザヴィエ・ドランは被害者が加害者と心理的つながり持つストックホルム症候群だと言っていたが、複雑で曖昧なトムの心理状況はとても面白かった。
アガットは何も知らされていない母親。でもおそらく、確信がないだけで息子たちの性的嗜好はわかっているはずだ。しかし実はあまり気にかけていない。
亡くなった夫の話をよくすることや、偽りの恋人が葬儀に来ないことに感情的になることからもわかるようにアガットが大事に考えているのは愛し愛されること。
ギョームのお別れに愛した人が来ないと泣くアガットだが、実際は恋人のトム、フランシス、アガット、それにフランシスに追い返されたギョームと踊った男、と、ギョームを愛した人々は参列していた。
それを秘密にされていて、わかっているのかいないのか、求めたのはトムの口からの「ギョームを愛していた」という言葉。
フランシスはトムやサラに嘘をつけと言う。アガットは真実の愛の言葉を言わせようとする。トムはギリギリの表現で双方を回避しようとする。
お互いの思惑がすれ違い、自分のいいものを引き出そうとする駆け引きがサスペンスフルで面白かった。
複雑な心理描写を少ないセリフで表現し、愛の行為のような暴力シーンといくつかの死で、悲しいような美しいような「何か」を出しつくしたグザヴィエ・ドランは興味深い人だと思う。
その「何か」がわかれば苦労はないんだけど、言葉にできるようなものではないのかも。とりあえず観てみたらいい。
ラスト、トムはUターンして農場に戻ったんだろうな。