「スリラーなのか」プリズナーズ 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
スリラーなのか
『灼熱の魂』のドゥニ・ビルヌーブ監督による本作。
『灼熱の魂』は、表層と底流で違う次元の物語が並走する映画だった。
本作も、表面上は、ある日突然に娘を誘拐された家族の物語をスリラーの体裁で撮っている。
撮影ロジャー・ディーキンスによる自然光を生かしたシビアな映像が、スリラーとしての怖さ・冷たさを煽る。かなり長尺の映画だったが、映像の静かな怖さに最後まで引っ張られた。
しかし、本作の本分は、スリラーとしての「怖さ」でも、ミステリーとしての「謎解き」部分でも無く、別の事だったように思う。
他のレビュアーの方がお書きになっているように「囚われし者たちの在り様を観る映画」なのだと思う。
プリズナーズ(囚われの身)とは誰のことを指すのか?
表層的には誘拐犯に囚われている子ども達の事なのだろうが、自身の信念に囚われている父親ケラーの事でもあり、薬に囚われた母親でもあり、無能な組織に囚われている捜査官ロキでもあり、狂気に囚われた犯人でもあり、登場人物が全員、囚われし者プリズナーズだった。
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被害者の父親ケラーは、容疑者を誘拐し口を割らせるために拷問を加える。その残虐さは日に日に増していく。
ケラーの行動は、娘への深い愛情あってのことだが、リバタリアニズムという彼の信念にも則っている。
その描写は、誘拐事件の被害者の苦悩というよりも、もっと根源的で普遍的な、
「苛烈な危機に面した時、人はどういう行動をとるのか?人は何に則って行動するのか?」
を写し取っているようにも思う。
(「人」を「国」と置き換えてみると、『ゼロダークサーティー』的な問題を示唆しているようにも思える。)
必要に迫られた暴力(必要だと信じている暴力)は、果たしてどこまで許されるのか?
本作は、その行動に対し、倫理的な是非を下さない。
(観客に、ステレオタイプな共感も批判も許さない描写の仕方だったと思う。)
是非を下さない代わりに、必要だと信じるが上での暴力に「囚われた」者の姿を刻々と描写するのみである。
ラスト「赤い笛」の幕切れは、父親の信念を肯定しているようにも否定しているようにも見えた。
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すべての人がプリズナーズ。何かに囚われ迷路に陥っている。
本作で「迷路」の絵が度々出てきた。
シャルトル大聖堂にある「エルサレムの道」と呼ばれる迷路の文様とも似ていた。
いにしえの巡礼者達はこの迷路を懺悔しながら歩いた。
本作は、迷路を惑い歩く者たちの映画だったのだと思う。
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迷路の他にも、宗教的な警句、捜査官の「ロキ」という名前、ロキの首筋に刻まれた入墨、蛇などなど、様々な暗喩にあふれている映画だった。個人的に残念だったのは、そういった諸々が、ペダンチックな方向に転びすぎてしまったかなと感じた。『灼熱の魂』では、もっと上手く物語の中に取り込まれていたと思う。
題材と主題が微妙に乖離してしまったような気がしてならない。