ゼウスの法廷のレビュー・感想・評価
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風鈴のならない部屋で
ゼウスの法廷 ― 風鈴の鳴らない部屋で
黒い衣が静かに揺れている。
法廷には風が吹かないし、風鈴も鳴らない。
決められた手続き、積み重ねられた判例、赤字を出さない段取り――そのすべてが、音のない風のように場を撫でて通り過ぎる。
2014年の映画『ゼウスの法廷』は、法廷ものという装いのまま、その内側に隠された人間の鼓動を露わにする。用意された結末の安易さに背を向け、物語の枠をぎりぎりまで押し広げて、問いだけを残す。
主人公・加納清明は、少年期の理不尽な裁判に焼き付けられた痛みから、「日本の裁判を変えてやる」と誓い、黒い法服――染まらないはずの黒――を身に纏う。
ところが、その誓いは職務という常識の中で少しずつ摩耗し、彼の純真は“事務処理”の名のもとに黒へと染められていく。事件を滞らせないこと、赤字を生まないこと。法廷の時間は血液の循環のように均され、疑問の小石が落ちれば流れは乱れ、誰かの体温は置き去りにされる。
判例は判例にすぎない。同じ事件など存在しないのに、似ている“要点”だけが並べられ、似ている判決が呼び出される。
情状酌量とは何か。
被告と原告の間に伸ばされた共感の細い橋――「良心」はその上を渡るのか、それとも「私情」と呼ばれて川へ落ちるのか。
この映画の焦点は、その一条の橋にある。
加納は、元婚約者・恵の事件を自ら裁く。利益相反の現実性など、物語は承知の上で踏み込む。法服が黒であることの意味――何色にも染まらないという建前。その建前をまとったまま、彼は自分がなぜここにいるのかを、最後の瞬間に思い出す。
無罪――その主文は上司の怒号を呼ぶ。「最低でも懲役二年、執行猶予四年だ」。常識の数式は、彼の良心と衝突し、黒い衣の内側で微かな風を起こす。
加納の問いは鋭く、しかし正確だ。
「もし山岡に女が現れなければ、あなたはどうしていましたか?」
「もしも」は存在しない。だが問いは、「いま」の輪郭を浮かび上がらせるために投げられる。恵は「わかりません」と答える。けれども、彼女が“その気”で出会いに向かった事実は消えない。
山岡との時間は、恵にとって「本当の自分」を回復するひとときだったのだろう。婚約とは、判事の家政を整える契約に近いものへとすり替わり、日々の齟齬は積み重なっていく。
折り合いをつけることが結婚の技法だとしても、折り合いが自分を失わせていくとき、それは罪なのか。
多忙な加納には、婚約者の微細な感情は砂粒のように見えた。砂が堆積して崩れる音は、事務処理の書類の擦過音に紛れて聞こえない。
法廷は手続きの舞台であると同時に、記憶の劇場でもある。
加納は自問する――「良心とは、私情なのか?」
少年の誓いは私情なのか、それとも制度に風穴を開けようとする良心なのか。
自問自答の末、彼は無罪を宣言する。被告に寄り添うことは、たしかに私情と呼ばれるだろう。しかし罰することもできたのだ、容易に。情状酌量という名の技術で執行猶予を付け、責任をとって退官する――それが“常識”。
加納は問われる。「退官するのか?」
彼の答えは「いや」
それは“正しいことをした”という静かな確信、黒い法服の黒をもう一度“染まらない黒”へ引き戻そうとする意思の表明だ。
因果は連鎖する。
かつての不当判決に傷ついた者が包丁を掲げて最後に現れる。赤い帽子の“りょうちゃん”に重なる影が、法廷に暴力の輪郭を差し挟む。
「お前たちが暴力じゃないのか!」
事務の常識は、ときに護られるはずの者に理不尽として降りかかり、その怒りは物理的暴力へ姿を変える。
この連鎖を、どこで断ち切るのか。
風鈴の会――もしそれが実在するなら、内田がその役を担うだろう。吹かない風を呼び込み、鳴らない風鈴にひとつ音を与えるために。
黒い法服は、何色にも染まらないとされる。しかし人の心は容易に染まる。
『ゼウスの法廷』は、ゼウス――すなわち人知の外にある権威の名を借りながら、神のふりをする私たちの危うさをそっと突く。
法廷に風は吹かない。だが、良心という名の、ごく弱い風ならば吹く。
手続きは必要だ。判例は役に立つ。しかし、判例の間に挟まれた余白に、いまこの人の心を置くこと――それが裁く者の自由であり、責務であり、そして危うさでもある。
“染まらない黒”をもう一度“黒”として信じ直すために、私たちは、鳴らない風鈴の前に立つ。そこに確かに風がないことを受け入れながら、風を待ち続ける。
教育映画擬きの失敗作
現実の法曹界を扱う希少な映画
観客がもっと映画作品として感情移入出来る要素があったら良いのにな!?
この映画のヒロイン恵は、お見合いで現在は判事である加納と言う男性と婚約する。
この映画を観るまで日本でもこんなに、数が多くの裁判が執り行われていて、それらの裁判の大半は裁判所で、審議を行うと言う以前に、警察や観察側で揃えられた物的証拠を基に、それが正しいと言う信頼の想定の元で、裁判が進行し、起訴された事件のほぼ99パーセントが有罪になると言う事実は全く知らなかった。
弁護士になる人間は多数いるし、判事や将来は裁判官を目指す人が多数いても、裁判は実際には問題解決するまでには何年もの長い日時を要する。
それ故に裁判とは内容の審議を吟味すると言うよりは、裁判を最速に終了し、起訴された問題を早急に解決へと導く為の時間との戦いこそが、裁判の最も大切な要因と化していると言う現実がこの作品を観ていると、よーく伝わってくるのだ。
事の正義や、公平なる法の判定と言うより、前例に沿って、早期に問題に決着を付ける事こそが、裁判に於ける最重要問題になっているのが現実のようらしい。
人間の考え出した法には元々矛盾や、物事の善悪の一事だけでは判定出来ない部分も多数ある。
国民主権である、日本に於いて、法を司る裁判官や、裁判に関わり合いを持つ判事や検察官や、警察の人間が、時間に追われる中で審議らしい審議を全うに行わないままに、判決を下してしまっても良いものか?と言った今の日本に於ける法や裁判制度の矛盾にメスを入れた問題作ではある。
言いたい事や、導き出したいテーマやこの作品の主旨は充分理解出来る。だが、TVドラマ
の2時間ドラマ放送で充分な作品かな?と思ってしまうような作品の出来だった。
先にテーマ有りと言う作品の作り方、特に裁判が中心になる作品の場合は、本作の様に矛盾点の、その問題となる点を見せる事で、その問題の事の重大さ、大きさを伝える事になるので、どうしても作品の運びや、設定内容に不自然性や、矛盾を浮き彫りにする事が映画の出来に大きく影響してしまい、話が極端に成る為に、観ていて信頼性に欠ける作品になってしまう点が多数有るのだ。
シナリオライターは、ホームドラマの次は、刑事ドラマと医療現場が舞台の物語、そして裁判ものが、最終的に描けないと一人前とは言えないらしい。
しかし、こう言う映画は一般庶民の実際の現実生活の中で、裁判を経験する事が少ない私達にとっては、非常に難しく分かり難いと言うのもこの手の法廷作品だ。
その点、本作は予算の関係もあろうかとは思うが、もう少し馴染みの有る俳優を起用するなど観客が作品を楽しめるような工夫が成されると良かったと思う残念な作品だった。
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