劇場公開日 2014年3月8日

「風鈴のならない部屋で」ゼウスの法廷 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 風鈴のならない部屋で

2025年12月27日
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鑑賞方法:VOD

ゼウスの法廷 ― 風鈴の鳴らない部屋で

黒い衣が静かに揺れている。
法廷には風が吹かないし、風鈴も鳴らない。
決められた手続き、積み重ねられた判例、赤字を出さない段取り――そのすべてが、音のない風のように場を撫でて通り過ぎる。

2014年の映画『ゼウスの法廷』は、法廷ものという装いのまま、その内側に隠された人間の鼓動を露わにする。用意された結末の安易さに背を向け、物語の枠をぎりぎりまで押し広げて、問いだけを残す。

主人公・加納清明は、少年期の理不尽な裁判に焼き付けられた痛みから、「日本の裁判を変えてやる」と誓い、黒い法服――染まらないはずの黒――を身に纏う。

ところが、その誓いは職務という常識の中で少しずつ摩耗し、彼の純真は“事務処理”の名のもとに黒へと染められていく。事件を滞らせないこと、赤字を生まないこと。法廷の時間は血液の循環のように均され、疑問の小石が落ちれば流れは乱れ、誰かの体温は置き去りにされる。

判例は判例にすぎない。同じ事件など存在しないのに、似ている“要点”だけが並べられ、似ている判決が呼び出される。

情状酌量とは何か。
被告と原告の間に伸ばされた共感の細い橋――「良心」はその上を渡るのか、それとも「私情」と呼ばれて川へ落ちるのか。
この映画の焦点は、その一条の橋にある。

加納は、元婚約者・恵の事件を自ら裁く。利益相反の現実性など、物語は承知の上で踏み込む。法服が黒であることの意味――何色にも染まらないという建前。その建前をまとったまま、彼は自分がなぜここにいるのかを、最後の瞬間に思い出す。

無罪――その主文は上司の怒号を呼ぶ。「最低でも懲役二年、執行猶予四年だ」。常識の数式は、彼の良心と衝突し、黒い衣の内側で微かな風を起こす。

加納の問いは鋭く、しかし正確だ。
「もし山岡に女が現れなければ、あなたはどうしていましたか?」
「もしも」は存在しない。だが問いは、「いま」の輪郭を浮かび上がらせるために投げられる。恵は「わかりません」と答える。けれども、彼女が“その気”で出会いに向かった事実は消えない。

山岡との時間は、恵にとって「本当の自分」を回復するひとときだったのだろう。婚約とは、判事の家政を整える契約に近いものへとすり替わり、日々の齟齬は積み重なっていく。

折り合いをつけることが結婚の技法だとしても、折り合いが自分を失わせていくとき、それは罪なのか。

多忙な加納には、婚約者の微細な感情は砂粒のように見えた。砂が堆積して崩れる音は、事務処理の書類の擦過音に紛れて聞こえない。

法廷は手続きの舞台であると同時に、記憶の劇場でもある。
加納は自問する――「良心とは、私情なのか?」
少年の誓いは私情なのか、それとも制度に風穴を開けようとする良心なのか。
自問自答の末、彼は無罪を宣言する。被告に寄り添うことは、たしかに私情と呼ばれるだろう。しかし罰することもできたのだ、容易に。情状酌量という名の技術で執行猶予を付け、責任をとって退官する――それが“常識”。

加納は問われる。「退官するのか?」
彼の答えは「いや」
それは“正しいことをした”という静かな確信、黒い法服の黒をもう一度“染まらない黒”へ引き戻そうとする意思の表明だ。

因果は連鎖する。
かつての不当判決に傷ついた者が包丁を掲げて最後に現れる。赤い帽子の“りょうちゃん”に重なる影が、法廷に暴力の輪郭を差し挟む。
「お前たちが暴力じゃないのか!」
事務の常識は、ときに護られるはずの者に理不尽として降りかかり、その怒りは物理的暴力へ姿を変える。
この連鎖を、どこで断ち切るのか。

風鈴の会――もしそれが実在するなら、内田がその役を担うだろう。吹かない風を呼び込み、鳴らない風鈴にひとつ音を与えるために。

黒い法服は、何色にも染まらないとされる。しかし人の心は容易に染まる。
『ゼウスの法廷』は、ゼウス――すなわち人知の外にある権威の名を借りながら、神のふりをする私たちの危うさをそっと突く。

法廷に風は吹かない。だが、良心という名の、ごく弱い風ならば吹く。
手続きは必要だ。判例は役に立つ。しかし、判例の間に挟まれた余白に、いまこの人の心を置くこと――それが裁く者の自由であり、責務であり、そして危うさでもある。

“染まらない黒”をもう一度“黒”として信じ直すために、私たちは、鳴らない風鈴の前に立つ。そこに確かに風がないことを受け入れながら、風を待ち続ける。

R41
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