「悪い女ばかり作ってしまった日本の父親たち」渇き。 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
悪い女ばかり作ってしまった日本の父親たち
『乾き。』(2014)
<悪い女ばかり作ってしまった日本の父親たち>
暴力や虐待シーンの羅列だが、LGBTなどと一方で言われるが、この映画では、男が男に犯されることによって強烈なトラウマを与えられて自殺したり、気が変になってしまうというような、これをLGBTを明るくという動きはどう観るのかという隠れた問題点もある。男に犯された男が恋した女が男に指図して犯したという関係。恋した者が悪だったなら。『日本で一番悪い奴ら』も覚せい剤が人を狂わす道具として出ていたが、あの映画はそれでも悪どくはみせてなかったのかも知れないが、この映画は悪どく見せている。娘が極悪人になった経緯は何なのか。元刑事(役所公司)は、妻が不倫して離婚したという面もあるのだろうが、娘のほうが求めてきた近親そうかんに元刑事が怒り、かなりの暴行を娘に与えたことなど、狂った関係が暴力的に羅列される。元刑事も覚せい剤を常用してしまっているが、娘が求めた近親そうかんに関しては父親として元刑事は娘を怒ったが、娘は笑って、誰とでも身体を与えたり、思っている男を窮地に追い込んだりする。こうした娘のサイコパス性があったり、原色の、プリクラの動画集みたいな見せ方で狂気を表す。狂気の上に強い狂気がいて、元刑事は凶悪な集団に拉致される。娘に憧れていた若い男をも男に性行為させたり薬物で狂わせてしまう。悪の上に悪がいて、それで観た者は悪を嫌になってしまう方策なのだろうか。
良い事をみせて良いことがわかるという方策ではわからなくなってしまった社会の見せ方なのだろうか。しかし残虐シーンは見せたくないようなシーンである。娘という狂気を生んでしまった償いのために、悪の集団の中に拉致される父親という構図だろうか。悪と悪が絡んでしまうというのは、小説の朗読で聴いたが、『グラスホッパー』を思い出した。善人ではない部分を持ってしまった人が、
もっと大きな悪と立ち向かうことになってしまったということか。役所広司とオダギリジョーの死闘もすごいし、妻夫木聡の変な刑事もすごいし、バイオレンス映画というのか、こういうフィクションはいったいどういう感覚で観客が動くのか。悪と悪は本気で殺し合っているところを集団で警察が現れて妻夫木は笑っていたり、そういう狂気もある。それは一体なにを表そうとしたのか。こういうのを観ると書いているほうも変なのだが、狂った娘の償いが父の行動だったのか。しかしその過程で、犯罪だらけである。しかし、これを観ると、社会には変な人間も紛れているのかとがっかりした気持ちにもなるような。どうしてこういう映画を選択してしまったかという私の歴史的タイミングのような。一体何が意味があるのか。しかし、役所が絶対絶命から脱出したのか、警察からも逃れたのかとか、時間を戻しているのか、わけがわからなかった。性暴力のシーンも幾つもあるし、小松菜奈演ずる主人公はやたら男女構わずキスをしまくる。しかし、役所は不死身なのか。オダギリもかなり
タフだったが。いくらフィクションだとは言え、この役所の不死身性というのは、一体何を言いたかったのか。雪山の中で遺体を探し出せと言う不可能そうな命令も一体何を言いたいのか。今まではメモのように書いてしまったが、結局、日本社会が壊れてしまったのは、悪い娘に父親がしてしまったというのが言いたい事かと思う。ここまで理解不可能なまでに悪化してしまったのだ。母が不倫しているのもそうした予備だろう。こういう映画にクリスマスのような画像や音楽でつなげるところが、狂気的でもある。悪いことはしてしまったことがあったとしても、こんなに悪くはないかくらいの慰めにも使えばよいのだろうか。それも悪いか。