「パンフレットに寄稿する評論家も大変だ」悪の法則 13番目の猿さんの映画レビュー(感想・評価)
パンフレットに寄稿する評論家も大変だ
先だって公開された『ワールド・ワーZ』といい、映画配給会社は短期決戦でとりあえず集客ができればいいとでも思っているのか。もちろん、集客は大事だし何よりそれがビジネスではあるが、『悪の法則』という邦題、「黒幕は誰だ?」的な煽り、いずれもこの『The Counselor』には相応しくなかった。あまりにも作品とかけ離れた邦題を付けて見当違いな煽りを入れるのは、映画に対する敬意が欠けていないだろうか?とはいえ、そういう配給会社対する不信を覚える一方で、ぶっちゃけそうでもしないと結構きつい映画であるのもまた事実だ。
この映画、肯定的に言うなら「俳優の贅沢な使い方」であり否定的に言うならば「俳優の無駄使い」だ。マイケル・ファスベンダーは相変わらずいい演技をしていたし、見ようによってはペネロペ・クルスもブラッド・ピットも「彼らがああいう使われ方をする」というのもある意味斬新かもしれない。しかしバビエル・バルデムはどう見ても松阪牛をウェルダンに焼いたぐらいのすごい無駄使い感がハンパない。どうしようもない肩透かしで悪い意味で仰天してしばらく開いた口が塞がらなかった。加えて構成がどうもおかしい。そもそも何故キャメロン・ディアス扮する悪女は薬の売買のルートを知り得ることができたのか?主人公が担当していた受刑者は国選であてがわれたのであくまで偶然だし、その運び屋の息子の身元引受人になるのも偶然だったはずだ。それを何故計画的に奪うことができたのか?ペネロペ・クルスは主人公の女だから「ああなった」のにメキシカンから見たら同位置にいるようなキャメロン・ディアスはなぜ無事なのか?さらには語られないことも多過ぎる。男達三人の関係も、主人公がどれほどコアに薬物の売買に手を染めていたのか、「危ない危ない」みたいなことばかり皆口々に言うが(そのくせ絶体絶命だというのに主人公以外妙に冷静だったり)、当の危ないことが一切描かれていなかったりと、つまりはこの映画には観客を説得するという手段が尽く抜けているのである。そのせいで、ただ単に残虐な描写をして観客を陰鬱な気持ちに落とし込みたいだけの、製作者の性格の悪さがにじみ出ているかのような印象すら受けてしまうのだ。その製作側の残虐性の最たるものがブラピの末路だ。劇中で説明されていたように、あの処刑方法はメキシカンが見せしめにやるやり方であって、別にキャメロン・ディアスがその方法をやる必然性はどこにもなく、ノートPCが欲しいならひったくるなり後ろからナイフでぶっ刺すなりすればいいだのであって、あんな陰惨な死に方をする必要などはどこにもないのだから。
別に自分が善人だといいいたいわけではない。ただ映画の造りとして安易なハッピーエンドが胡散臭いのと同様、安易なバッドエンドも十分に胡散臭いのである。特に不条理という受け入れがたいものを観客に飲み込ませるなら、ハッピーエンド以上に構成や主題に気を使わなければならない。少なくとも同じコーマック・マッカーシー原作の『ノーカントリー』にはそれがあったのだが……。