「再鑑賞。」るろうに剣心 伝説の最期編 よっちゃんイカさんの映画レビュー(感想・評価)
再鑑賞。
最終章公開記念の映画館での再上映で見た。
リアルタイムで見てて原作と変わりすぎていて嫌だった。
が、今回見たことで改めてどこがどう嫌だったのかを考えてみた。
まず、煉獄がやってきて伊藤博文と交渉する場面。
伊藤自体が原作では登場しない人物であるため公開当時観た時は非常に嫌悪感を覚えていたが、今改めてみるととても良いシーンだった。
原作でもあった明治維新政府のオモテとウラ。
今回のボス志々雄でさえも明治維新政府の被害者である。この事実がより印象的になって良い改変。
途中の抜刀斎手配〜煉獄砲撃〜最後の敬礼まで明治維新の裏の面、かなりな策略家であることを示していて、維新政府の描き方はとても好きだった。
そして、十本刀の雑魚キャラ化
もうこれ自体はしょうがない。
しょうがないとは思いつつ。
安慈ぐらいはどうにかならなかったのかと思わざるを得ない。
宗次郎は前編での活躍がまだある。
方治は良くも悪くも個性的な演技でまだ印象に残る。
宇水は原作でもほぼ瞬殺だし、そこまで重いものを背負ってたわけでもないからまぁまだ。それでもすれ違いざまの瞬殺は流石に笑った。
ただ、生殺与奪の安慈はもっとじっくり描いて欲しかった。
明治維新政府のウラの面である廃仏毀釈から始まるこの男の物語を方治、由美、宗次郎の過去を語る説明キャラに改変し、金玉掴みで終わらせるのは流石に・・・
まぁ監督は安慈があんまり好きじゃなかったのかな。
そして、最大の問題四乃森蒼紫。
この蒼紫の決着のつけ方が雑すぎて雑すぎて。
そもそも蒼紫は修羅には堕ちていない。
修羅に堕ちる寸前の蒼紫を引き戻す事に剣心の使命があったはず。
それがただただ修羅の蒼紫を倒す話になったのはただただ残念としか言えない。
「この闘いに決着をつけねば俺は前に進めない」このセリフが悪い意味で原作と180度違って聴こえる。
あまつさえ観柳編の最後のセリフをここに持ってきて剣心に言わせるのは考え違いも甚だしい。
これでは蒼紫は救われないのでは??
さらに言うと、原作の蒼紫編は死ぬ気の蒼紫VS生きる意思を持った剣心の闘いであり、生きる意思は何よりも強いというのを証明する闘いでもあった。
このテーマが映画ではほとんどないものになってるのは悲しかった。
アクションはかなり良い手だっただけに非常に、ひじょ〜〜に残念。
そして比古清十郎。
この剣心の奥義会得が蒼紫にならぶくらい酷かった。
ひたすらアクション、アクション、アクション、たまに入るちょっとしたセリフ。
正直お腹いっぱいである。
ここでアクションするならその尺をもっと詰めて最後の宗次郎戦や宇水戦、安慈戦に使った方がよかったのでは。
この修行を見てる時に気づいたのが、追憶編の要素も少し入れている所。
正直言って欲張りすぎ。
その時は続編を制作する気はなかったとは言え詰め込みすぎである。
奥義伝授その場面を描かないのは別にわからない話ではない。
漫画やアニメとは違い誤魔化しが効かない実写。
奥義の全貌の初出を最終決戦まで取っときたかったのだろう。
最終決戦は非常に良いアクションで素晴らしかった
結論としては監督が原作を好きすぎて原作のアレも入れたい、これも入れたいとなって詰め込みすぎパンパンになってしまったんだろう。
又、るろ剣の一つの魅力として敵をただ倒すだけではなく、闘いの最中に敵と対話して、敵ひいては剣心自身を救っていくというのがあると思う。
この剣を通しての対話というのが京都編全編を通して少なかった、いや、対話“のようなもの”はあったがそれが的外れあるいは薄っぺらかった、そんな気がする。(第1作目では剣心の心に揺さぶりをかける等の対話がしっかりあった気がする)
最終章の公開が楽しみであるが一つの不安は人誅編を元にしたfinal追憶編を元にしたbeginningという宣伝の仕方。
とんでもない順番の改変が行われているような気がしてならない。
この不安が杞憂に終わればいいと切に願うばかり。