フォンターナ広場 イタリアの陰謀 : 映画評論・批評
2013年12月10日更新
2013年12月21日よりシネマート新宿ほかにてロードショー
イタリア最大の未解決事件の真相に迫る政治サスペンスの快作
1969年12月12日、ミラノで起きた爆破事件の真相に迫る快作は、まだるこしい説明ぬきで数々の関係者を登場させる。イタリアの往時を知らない観客には少し不親切かもしれない口調はしかし、懇切丁寧な説明ばかりで中身のない昨今の解り易い映画に欠ける濃密なスリルをじわりと差し出してくる。無駄口をたたかず進展し、封印された事件の核心に手をかけるプロット。淡々としつつもしぶといその歩調を担当刑事のそれに重ねる映画は、“鉛の”と呼ばれた時代を体現する沈んだ色調を守り、うっとうしいメロドラマも社会派ドラマも退ける。芯の熱さを表皮のクールで包んだ映画のそんな告発の姿勢に巻き込まれつつ、1970年代には欧米にも日本にも当り前に存在していたこの種の噛みごたえある政治サスペンスを懐かしみたくもなってくる。
パゾリーニの死(政治的暗殺説)を問う長編、さらにシチリアで反マフィア運動の末に殺された60年代の青年を追う「ペッピーノの百歩」。まさに噛みごたえある政治サスペンスで頭角を現した監督マルコ・トゥリオ・ジョルダーナならではの新作は、ラストにアフロディテス・チャイルド(≒バンゲリス)68年のヒット曲「雨と涙」をそっと置く。ギリシャ軍事政権誕生後のギリシャを逃れたグループは若き日のテオ・アンゲロプロスの未完に終わった長編の主役としても知られている。あるいは同じ曲を「百年恋歌」第1話で使った候孝賢。政治の季節を生きた作家たちとの共振に気づいてみると、締めくくりの一曲の調べの甘さを裏切る歌詞の苦い洞察が全篇に改めて響いてはこないだろうか。
(川口敦子)