「奴はとんでもないものを盗んでいきました・・あなたの心です。」鑑定士と顔のない依頼人 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
奴はとんでもないものを盗んでいきました・・あなたの心です。
タイトルは冗談としてw
とにかく、とにかく絵が素晴らしい。そして抑制と抑揚のよく効いた端正な音楽。
ストーリーも演技も非常にミステリアスで、伏線がふんだんに張り巡らされており、
緊張感が途切れることがありません。
童貞を拗らせた爺さんが、いい歳してハニートラップに引っ掛り、すべてを失う映画・・
と表現すると身も蓋もありませんが、
単純に、財産や信頼や愛する相手を根こそぎ奪われてバッドエンド、なのではないのですね。
対人恐怖症で、女性の手にも触れられない、目も合わせられない美術鑑定士は
仕事上の目利きは超一流であるが、人生における目利きは超三流で、
友人も、愛も、信頼できる相手も、張り巡らされた陰謀も、なにも見抜くことができません。
その彼が、引き籠り、築き上げてきた自分の城という殻から、
ラスト、ようやく解放されることができたのですね。
都合よく自分を見つめ、微笑んでくれる大勢の美女たちに囲まれて暮らすのは、
それはそれで、長らく、幸福で安寧だったのでしょうが、
そんな逃避しているだけの、歪んだ幸福で、一生を終えてしまって良いのでしょうか。(それもまた人生! なのですが)
そっとしておいてくれないのが、この映画なのですね。
かなり手荒い手段でしたし、彼はその人生のなにもかもを、財産も、社会的名誉も、恋人も
一旦は、心すら失ってしまう訳なのですが、
ただ、その苦く、つらい経験が、彼を、蘇らせてくれるのです。
人並みに、貧や、挫折や、失恋を経験し、
社会のなかの(ごくありふれた、当たり前の存在=)歯車として生まれ変わることができたのです。
チャプリン「モダンタイムス」以降、高度経済化、機械化社会のなかで「歯車」と描かれることは
非人間的で、悪だという価値観が長く支配してきていたのですが、
この映画は、時代の変化と共に、そこへ一石を投じているように感じます。
歯車のように、他人と同じように生きることもまた、幸せなのだと。
オートマタのような機械仕掛けのシステム(社会)の内側に、
真実を告げる小人のように、隠れてひっそりと暮らすことも、ひとつの知恵であり、
これもまた、ひとつの幸福なのですね。
労働者が消耗品のように扱われてきた時代から、
人間ひとりひとりの人権が、命の値段が、それこそ、芸術品のように高価になった現代ならではの視点ですね。
特異に目立ち、ワンオフの高級品として生きるよりも、平凡ななかに、安寧と幸福を見出す、、
若い世代を中心に、そんな価値観のシフトは実際に起こっていると思います。
老人も、あのまま衰弱し、精神病棟かリハビリ施設で終わってしまってもおかしくなかったのですが、
彼の中で、一念発起し、それこそ自分のなかの根深い価値観(重力方向ですら)ひっくり返して、
ここから、彼は生まれ変わり、再出発するのです。
彼の人生は惨めでしょうか? 他人と比べ、孤独でしょうか。
私には、これまでの彼の人生の方が、ずっと孤独だったのではないかと思いますね。
偽りと虚飾から逃がれ、彼は実は、今がいちばん解放されているのですね。
来るはずのない恋人を待ち続ける、苦しさや悲しみの先に、喜びもまた、待っているのですね。
今はどん底のように感じられるかもしれませんが、
復讐により、一見、すべてを失った彼が、代わりに得たものがある。
皮肉で残酷なメッセージかに思われますが、どうでしょう。
それこそが人生ではないですか。