「二階堂ふみのための脚本」私の男 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
二階堂ふみのための脚本
人生初の初日の初回上映。有楽町スバル座の昭和な雰囲気を楽しみつつ、映画の始まるのを待つ時間は幸せそのもの。
作品はというと、、、
「海炭市叙景」と共通する冷たく陰鬱なトーンの画像。これ、熊切和嘉のこだわりなのか。子供のころいつも憂鬱な気分になった、あまり天気の良くない日の夕暮れ時の外の光。あれを思い出させる。両作品と同じく、雪に閉ざされた北国で過ごした時の記憶が感傷と共に蘇った。
画像のほうはともかく、音のほうは映画によくありがちな、生活の細かな音までが強調されているもので、少し不自然さを感じた。その不自然さは、二階堂と浅野の絡み合うシーンで、シーツの擦れる音を強調し、二人の肉体が接触している音は聞こえてこないことによってピークを迎える。
このことにより、父娘(表面上養子関係だが、実は本当の親子)の秘めたる関係という、人類史上もっとも古い禁忌と言ってもよい関係の描写が、その画像のインパクトに比べて、映像全体としては落ち着いたトーンとなっている。良し悪しは別として、音の作りが、この作品にそのような効果をもたらしている。
二人の愛し合うシーンの中で、血の雨が降るシーンがあるのだが、賛否分かれるところだろう。これじつは監督の照れではないかと思っている。あそこで血の雨でも降らなかったら、実に隠微で二階堂の若い肉体のうねりに観客はドキマギしてしまうではないか。
さて、二階堂ふみである。残酷なまでに、純粋に義父を愛している少女を見事に演じている。一人の男の一生を、全て自分のものにしてしまった残酷さにすら、最後まで気づいてはいない。
すでに、主演を彼女にすることが大前提で、脚本が練られたのではないかと思うくらい、二階堂の口から出てくるセリフの一つ一つが、彼女の顔つき、仕草になじんでいる。義父の恋人に対して、自分の想いを告げるシーン。あの無邪気な笑顔で、あれだけあけすけに自らの愛にとって邪魔なのだと宣告されれば、たいていの女は、男の娘には敵わない。
このようなシーンで観客の目を引き付けるこの女優は、今の日本の映画界に欠かせない存在だ。
娘を他人である男へ手渡さねばならないことは、父親にとって、非常に辛く、人生の虚しさを覚えることには違いない。ただ、この父にとっては、その悲劇があまりに自分の若うちに訪れ、そして去って行く娘が美しく、愛らしい容貌の持ち主ということだけでなく、自分への人並みならぬ愛情を持っているということが不幸だった。
婚約者を紹介するために久しぶりに会うラストシーン。最後に彼女は父親と足を絡めあいながら、何をささやいたのだろう。