「「ホラー」扮する「*****」」バイロケーション crawlonさんの映画レビュー(感想・評価)
「ホラー」扮する「*****」
本作は、ジャンルこそ「ホラー」に分類されていますが、その正体は「解離性障害」についての「健常者」による無理解を問題として提起しているものと私は解します。
というのも、私は「解離性障害」当事者であり、同じような経験をしているためです。
例えば、映画館へ鑑賞しに行く場合、確かに半券はポケットに入っているし、レビューも書いているのだから行ったに違いない。にもかかわらず、その実感は時とともに薄れゆき、いつしか「もう一人の誰か」から聞いたことを自分の記憶として蘇らせている、つまりは「自分という他人」を通してしか体験を理解できない。
例えば、学問している「自分」の記憶は、自転車に乗りアルバイト先のDVDレンタル店へ向かい、そこで仕事している「自分」の記憶との間で分断され、それぞれの「自分」は「自分自身」の学問やら仕事やらの記憶を一本の線模様に描けるが、もう一方の「自分」の記憶へとアクセスできない、つまりは「記憶にない」。また、記憶がもう一方の記憶へと切り替わる際に、その前後の記憶が消失してしまうため、自転車で自宅と職場を往復した証拠が見当たらない。瞬間移動したのだろうか、いや、ないない。歩いていったとするならばあまりに歩数計の数値が小さすぎる、だから(消去法的に)自転車で行ったのだ、という具合。
「解離性障害」はWHO(世界保険機構)がICD-10に記載があるものの、いわゆる「精神病」ではなく、生きることへの障害に過ぎません。
本作に沿って話をするならば、まず、「もう一人の自分」=バイ・ロケーションを殺そう、隔離しようとする立場(これが豊原功補扮する飯塚)、バイ・ロケーションとの共存を信じる立場(高田翔扮する加賀美)があって、各々が私自身が診察されてきた精神科医のパターンと恐ろしいほど重なります。
そして、この立場は「患者側」にも合致するものです(水川あさみ扮する桐村忍および滝藤賢一扮する加納隆が前者であれば、後者は千賀健永扮する御手洗巧)。
繰り返しになりますが、「解離性障害」は生きることへの障害に過ぎません。しかしながら、その障害は目に見えない。だから厄介で、当事者である「自分」は周囲が現在の悩みやら苦痛やらを理解してくれると始めは信じ、家族を含め周囲へとヘルプを発しますが、それが無駄だと知ったとき、その願いは絶望へと姿を変え、「バイ・ロケーション」という現象となって乖離・誕生するのです。さらにその「もう一人の自分」さえも、届かなかった助けての願いが叶うと思い込み(鏡に映ると錯覚する場面が象徴)、自己を慰めたり、自己実現のため行動に出たりするわけです。
本作の最重要テーマは「もう一人の自分との共存できるか」にあり、しかも答えまでも提示しています。
「できない」(自殺や事件惹起)のは、周囲の理解がなく、あるいは受け止めてくれる者がいない場合。愛情には様々な形態があるでしょうが、中でもプラトニックな愛情を共有できる関係(浅利陽介扮する高村勝)や、純粋な家族愛、友情さえあったのならば、私自身、自殺未遂に二度目三度目はなかったと思うほど重要な「目に見えないもの」に違いありません。同時に、この叶わぬ願い自体が共存「できる」居場所です。
最後、主人公が自殺したにもかかわらず、彼女のバイ・ロケーションは子(純粋な愛)を授かり、以て実体を得ますが、実は、この描写こそが、テーマの答え。すなわち共存は「できない」を象徴すると私が解するのは、そもそも先の居場所さえあったのならば、バイ・ロケーションなど生まれないからです。
一度生まれてしまったらどうするのか。治療する?いえいえ、病気ではないので。じゃあ、どうするの。さあ?共存するしかないんじゃない。ちょっと待った、さっき共存「できない」って言ったじゃないか。まぁ、それは「いまの社会的には共存」できないんであって、身近な人が少しでも、体験できないことを理解する視点を持ちはじめたら、いつかは「障害」ですらなくなるって。自分自身が生きる障害でも、周囲が異常な人間として排斥する意味での障害でも。
先日本屋でふと、『解離性障害—「うしろに誰かいる」の精神病理』(柴山、ちくま新書、2007)を手にとりました。まえがきには「患者を支える家族、友人、恋人にぜひ読んでほしいと思っている」とありました。
ホラーというカテゴリーでしか受け入れられない現代社会は「私たち」にとってはまだまだ夜明けまえなのです。