「利尻昆布と本枯れ節の最高級のダシを使ったハバネロ料理」マッドマックス 怒りのデス・ロード メンチ勝之進さんの映画レビュー(感想・評価)
利尻昆布と本枯れ節の最高級のダシを使ったハバネロ料理
この映画をイマイチと感じている人はまだしも、喜んでいる人の中にも「ストーリーのない単調なB級バカ映画」扱いをしている人が多いことに少しがっかりしています。
本作は、そんな薄っぺらな作品では全くありません。
まあ、料理にたとえれば、一見「ハバネロ大量投入の激辛料理」みたいな、過激な刺激にまみれているのは事実ですし、そこだけでも十分楽しめる作品ではあります。
しかしその一方で「コンブとかつおのダシもちゃんと利いてます」「しかも最高級の利尻昆布と本枯れ節を使ってます」とでもいうような、考え抜かれた設定と確かな技術、そして映画の王道とも言うべき物語性に裏付けられた、深みのある作品であることも事実なのです。
人によっては表面的な「辛い味しか分からない」のも無理はありませんから(鑑賞時の体調などにも左右されるでしょう)、以下に本作の「最高級のダシ」の部分を指摘しておきますので、本作に対する再評価の参考になれば幸いです。
※ ハバネロ部分は明らかなので割愛します。
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本作のストーリーは実にシンプルなものです。
核戦争によって文明の崩壊した世界、元警官のマックス(演:トム・ハーディ)は過去に救えなかった人々の幻覚に悩まされながら、逃げるように荒野をさまよっていた。
しかしイモータン・ジョー(演:ヒュー・キース・バーン)率いる狂信的カルト集団によって捕らえられ、戦闘員たちのための「血液袋」として拘束されてしまった。
貴重な水資源を通じて人々を支配するイモータン・ジョーは、同時に子供を産む女たちも資源として監禁し、支配していた。
しかし、ジョーの部隊を率いる大隊長フュリオサ(演:シャーリーズ・セロン)はフュリオサの五人の妻たちをひそかに連れ出し、武装トラック(日本語字幕ではウォー・タンク)に乗せて「緑の地」へと脱出を図る。
これを知ったイモータン・ジョーは軍団を率いて追跡を開始、戦闘員のひとりニュークス(演:ニコラス・ホルト)の車に「血液袋」として鎖でつながれたマックスもまた、この争いに巻き込まれたのだった・・・
・・・というような具合ですが、これは明らかに
出エジプト記
を原型としたプロットですね。
預言者モーセがエジプトで奴隷とされていたユダヤ人を率い、荒野の厳しい環境に耐えつつエジプト人の追撃から逃れながら約束の地を目指すという、よく知られた物語です。
チャールトン・ヘストン主演『十戒』(1956)を見たことがない人でも、海が割れる有名なシーンがある、ということくらいは聞いたことがあるでしょう。
ちなみに、同じようなプロットは西部劇でかなり使われていますね。まあ、人民ではなく輸送車両を警護しながら逃げる、という物語が多いのですが、それこそ『大列車強盗』(1903)や『駅馬車』(1939)のような名作をはじめ、繰り返し繰り返し使われているところ。
その「繰り返し使われる」にはもちろん理由があります。
それはチェイスシーンで見せ場を作れる上に、緊迫した状況に置かれた人々のキャラクターや人間関係を描くことで、作品に深みを持たせることが出来るから。
要は映画に向いている話なのです。
たとえば。
もとの『出エジプト記』自体がそもそもそういう話なのですが、逃げてる途中にブーたれるやつが必ずいるんですね。「こんな苦しい思いをしながら逃げるくらいなら、エジプトで奴隷だった方がマシだ」と。それで一行の中に意見対立や反目が生まれる。
そういう内部からのクライシスに指導者たる主人公がどう立ち向かうか、つまり亀裂の入った集団をどうまとめ、目的に向かって集団のモチベーションをどう盛り上げるか、いわばリーダーシップを試される場面であり、それが追いすがる敵(外部からの脅威)との対決とは異なる、静かで深みのある見せ場を作ることが出来るわけです。
その際、単に主人公が逃げるだけでなく、弱者を守りながら逃げるというプロットのほうが、主要人物のヒロイックさを描きやすいことはいうまでもありません。
まあ、モーセの場合は宗教的に問題を解決するわけですが・・・つまり奇跡という宗教的手段を通じて人々を導くわけで、だからこそ彼は宗教的指導者、預言者であるわけですが、映画の場合はそれをやるとご都合主義だと叱られます(チャールトン・ヘストン除く)。
ですから主人公の役割は危機に陥った人を言葉で奮い立たせ、そして自らが人々のために犠牲的行動をとる、それによって英雄性を表現するわけです。
というか、その深みを持たせられるかどうかで作品の質が変わっちゃうんですけどね。
もちろんチェイスシーンだけでも客を楽しませることは出来るので、そこに特化して95分くらいの映画を作ることも出来るでしょう。でもそれはB級にしかならない。
逆に、邦画にありがちなダメ映画は犠牲的行動なし、主人公の演説だけで済ませちゃうものが多かったりします。
一見立派そうな(しかし大して中身のない)セリフをモデルあがりのイケメン役者に絶叫させて、それで他の登場人物が納得したことにしちゃう。
「オレは仲間を守りたいだけだ!」とかいう薄っぺらいのがよくありますよね。15歳くらいの観客ならまだ心がキレイですから、それで感動してぼろぼろ泣くかもしれませんが、大人の観客はそうはいきません。
「この主人公は口ばっかりで何もしてねえな」「ていうか他の連中もそんな薄っぺらなお題目で納得してんじゃねえ」と思って、余計に鼻白んでしまうだけです。
では本作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はどうかと。
本作のモーセにあたるのはシャーリーズ・セロン演ずる女戦士フュリオサですが、抑制をきかせつつも要所要所で感情がこぼれ出るような質の高い演技によって、偉大な指導者を見事に演じていました。
過去のジャンル作品を振り返るに、従来はB級アクション映画における女戦士の類型というべきものがありました。
たとえばブリジット・ニールセンやグレイス・ジョーンズ、近いところではミシェル・ロドリゲスあたりが典型ですが、いずれも男勝りの闘士で、向こう見ずといえるほど攻撃的な性格をしているのが普通です。
おそらくウーマン・リブ時代の、男の偏見と戦う女闘士という類型からでているのでしょう。
しかし、本作でセロンが演ずるフュリオサは、そうした類型から一歩も二歩も抜け出すものです(もちろんアクション映画にありがちなヒロイン像からも)。
彼女は純然たる指導者として描かれており、仲間を失った厳しい場面における決断や、希望を失った絶望的状況においても立ち上がり、リーダーとして前進し弱者たちを率いることを放棄しませんでした。まさにモーセのように。
彼女は逃避行の最中でマックスやニュークスら異者を受け入れますが、その度量もまた指導者たるにふさわしいものといえるでしょう。見ようによっては聖書の預言者たちより寛大かもしれません。
そして、その彼女の姿は本作の主人公(?)であるマックスを蘇らせます。
ハーディ演ずるマックスは作品のはじめのころは心の折れた戦士であると同時に、人間性を失った野獣に近い振る舞いをする存在です(冒頭のモノローグ以外、ろくに言葉もしゃべりません)。ジョー軍に捕らえられた際も「血液袋」、つまりモノ扱いされていることはいうまでもない。
その彼が徐々に人間としての心を取り戻し、他者のために戦うという英雄性を取り戻すのはフュリオサに感化されてのことであるのは明らかです。
ここで重要なのは、従来のB級映画にありがちな「女としての慰撫」がマックスを奮い立たせたのではない、ということ。つまりフュリオサとマックスは男女の関係ではありません。
これはニュークスと妻たちの一人の間に淡いロマンスがほのめかされるのと対照的です。守るべき女性の存在が男を戦士として目覚めさせる、というのはごく普通のパターンですが、それと対比することでフュリオサとマックスの関係が余計に浮き上がるようになっているわけです。
とはいいながら、本作においてフュリオサが女性であることは作品上の必然といえます。監督自身がインタビューで言っていますが、もし男だったら「男に支配された女たちを、別の男が奪う」という話になってしまうからです。
しかし、本作が出エジプトのような「奴隷状態の人々の解放」、もっといえば「人間性の回復」の物語であるとするなら、指導者は逃げる人々と同じ属性を持っていなければならないのです。
つまり、ユダヤ人を率いるモーセがユダヤ人であったように、女たちを率いるフュリオサもまた女でなければならなかった、ということです。
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そして、フュリオサによって人間性を取り戻し、戦士として「復活」したマックスが、今度はフュリオサの窮地を救います。
ともに戦うことはもとより、気胸を手当てし、自らの血(=生命)を分け与えることでフュリオサを蘇らせますね。
つまりフュリオサが民を率いる預言者モーセだとすれば、マックスは死から蘇り他者に永遠の生命を与える聖者、すなわちイエス・キリストをモチーフとするキャラクターだと言えるでしょう。
カトリックの聖体拝領がキリストの肉と血に見立てられることはいうまでもありませんし、死んだラザロを生き返らせる有名な場面で「私はよみがえりであり、命である」と言ったように(ヨハネ伝11章)、キリスト教の救世主とは生命を象徴する存在なのです。
もっとも、そんなのはお前の勝手な妄想だという人がいるかもしれません。
そういう方は、ニュークスの車に縛り付けられたマックスが、どんな様子だったか思い出してください。
十字架に磔にされたイエスと同じポーズだったでしょ。
なんでわざわざあんな邪魔な取り付け方をしたか、あなたは不思議に思いませんでしたか?
あのポーズ自体に象徴的な意味があると考えれば理解できるはずです。
つまり本作のマックスは、十字架にかけられるまでのイエスというより、十字架にかけられてから復活するイエスというキャラクター類型と見るべきでしょう。
だからこそ、エンディングで彼は荒野に去っていく。
私が脚本家だったらこれ見よがしに "Quo vadis?" とでも入れてしまったに違いありませんが、この作品ではそんなベタで下品なことはしません。
極端に言えば、この映画はモーセとイエスの競演する映画なのです(もちろん大げさに言ってますが)。
その点、この作品が荒野を舞台にしているということ自体が非常に象徴的じゃないですか。
聖書的な世界では、聖者は荒野に現れるものですからね。
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もちろん、この映画がキリスト教の宣伝目的で作られたといっているわけではありません。
そうではなく、キリスト教文化圏の人ならごく普通に気づくような、そしてそれ以外の社会(たとえば日本)においても知識階級なら当然気づくレベルの一般教養を下敷きにして、この物語は成り立っている、というだけのことなのです。
ですから、「この作品に物語がない」というのは誤りです。
ちゃんと物語はあります。
ただし、日本のテレビドラマのように「バカでも分かるようにセリフでぜんぶ説明する」ということをしていないのです。だから分かる人にしか分からない。
そして何より、冒頭述べたように本作はハバネロ的な刺激に満ち溢れており、そういう「ちゃんとした物語」の部分が見えにくくなっていることも間違いありません。
ですから、あなた方がそれに気づかなかったからといって責めるつもりは毛頭ありません(残念だとは思いますが)。
私が言いたいのは、
世の中には一度では味わいつくせない作品がある
そして『マッドマックス 怒りのデス・ロード』もそうだ
ということだけです。
私自身もあと何度か見ようと思っています。
そして、そのたびにまた新たな発見があるはずです。