劇場公開日 2013年5月31日

「大人になるということ」言の葉の庭 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0大人になるということ

2025年1月7日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

この作品にあった水や風景の美しさは、ずっとそのまま新しい作品に受け継がれていくのだろう。
特に、雨という鬱陶しいもののおかげで表情を、動きを見せる誰かがいるという考えは、監督の心の奥底にあるロマンを掻き立てるモチーフなのかもしれない。
この物語は背景であるタイトルに示されるように、万葉集の一句から派生している。
この作品から監督は、男女それぞれの背景となるものを、それぞれのナレーションを通して語るという手法を取ったのだろうか?
主人公のナレーションが先行する。
秒速5センチメートルでは、手紙がナレーションの役目をしていた。
雲の向こう、約束の場所もナレーションはあったが、どちらかと言えば複雑なストーリー展開で面白さを描いていたように思った。
さて、
この作品でも登場するのが「距離」という問題
そしてこの物語にある「壁」の根幹が歳の差という体裁上の理由
それを純真な気持ちで見ようとしたタカオ
年齢の差とまだ子供であることの歯がゆさゆえに、なおさら気合が入る靴職人への道
父のことは描かれていないが、若干複雑である家庭環境が彼を早く大人にさせようとしているのだろう。
彼が雨の日に学校をさぼるのは、少しでも靴職人の勉強をする時間を作りたかったからだろう。
新宿御苑で出会った二人 タカオはいつか母に贈った靴が頭にあることで、ユキノの足元が気になってしまう。
ユキノは初見でタカオが同じ学校の生徒だと知るが、それを知った後なぜあの万葉集を口ずさんだのだろうか?
あの歌はこの作品の重要な部分ではあるものの、ユキノの現在の状況を鑑みればあの万葉集の句を口に出すことなど考えられず、あの場所へは二度と行きたくないと思うのが普通だと思う。
ではあの短歌は恋人に対して言ったのだろうか?
彼女は古文の教師で同じ学校の教師と恋愛していた。
その彼に対する彼女の気持ちは、「息をするもの辛かった時、あなたは周りのことばかり気にして私の言葉を聞いてくれなかった」だった。
つまり、ユキノはあの時点で彼とすでに別れていて、彼に対する想いは基本的にはなかったはずだ。
この物語が監督の中の真実であるならば、
この部分の解釈はとても重要なものになる。
初対面の高校生 お互いさぼっているのはわかる わずかな言葉のやり取り
彼女はそこで「歩く練習」をしていたということは、少しでも外へ出かけることから始めたという意味だろう。
そこで恐れるものを少しでも克服することが彼女のリスタートだったはずだ。
そこに現れたのが自分の学校の生徒
それに気づいたとき、彼女はとても怖かったはずだ。
しかし彼は自分にまったく気づいていない。
このことがユキノにとってある種のゲームになったのではないだろうか?
ここは非常に大切な部分で、ジブリの宮崎監督や高畑監督などは、一挙手一投足に意味があり絶対矛盾する動作は描かない。
矛盾を感じるのは、別の意味があるからだ。
この視点に立って考えると、この作品のこの部分だけに「解釈」が必要となる。
仮にユキノがある種のゲームを始めたとする。
学校を辞めて四国へ帰っても、やっぱり教師は続けたいというのが彼女の想いだ。
そこまで歩く練習の一つが、タカオとのコミュニケーションだったのだろう。
高校教師 高校生とのコミュニケーション 彼女にとって避けられない課題
タカオは純粋で、将来の夢を持つが、同時に多感でもある。
気づけば彼自身が恋をしていた。
純粋であるが故、相手の純粋さに対するジャッジメントがある。
決定的だったのが、四国へ帰るともう決めていたこと。
何もできない高校生
出勤できなくなって以来、そして梅雨が明けてしまってからもユキノは長い間悩み続けたのだろう。
タカオも専門学校に行くためにバイトの毎日
ユキノにとって少し楽しかったコミュニケーションで様々なやり直し方が考えられたのだろうが、結局もう一度あの高校の教壇に立つことはできないと判断した。
そんなことさえ何も知らなかった俺、タカオ
教師いじめ
そいつらをぶちのめしたい衝動 暴力
暴力もまた、人生や物語には必要要素だと思う。
タカオはその前後、自分の本気度を知ったのだろう。
そうして再開した二人と土砂降りの雨
ユキノのアパートで食べたオムライス 「生まれてから今が一番幸せかもしれない」
しかし、
一方通行であるはずのないこの思いは、裏切られた。
アパートの踊り場でのタカオの言葉は、「嘘つき」な大人への怒りだったが、それこそユキノの真の姿を言葉にしたものだった。
ユキノも純真ではあったものの、次第に壊れていく精神と味覚障害になるほどダメージを受けていた。
タカオの言葉はユキノに対する断罪だった。
しかしそれは「人と人」とのことで、本当のタカオと本当のユキノのことだった。
もしタカオの言葉の中に、学校のことが含まれていた場合、ユキノは再び障害を発症するかもしれない。
この時点でタカオは彼女のすべてを受け入れていることが、彼女にわかったのだろう。
タカオはそのことをすべて理解してくれたユキノを受け止め、そして一旦リリースしたのだと思う。
高校卒業して、専門学校に入り、靴職人としてデビューしてもまだまだ先は長い。
タカオの家族の状況も、実生活の難しさを教えている。
約束通り、彼はユキノの靴を完成させてあの場所へ持ってきた。
それを履く彼女の様子が頭の中に描かれたはずだ。
そして彼は誓う いつか歩けるようになったら会いに行く。
失われつつある大人への登竜門 それは本当の自分になること。
20歳になれば大人ではなく、まして18歳でさえない。
大人とは、大人になる決心をした時になれるもの。
その自分で決めた道の登竜門をくぐって初めてなれるもの。
その決心をした15歳のタカオは、もしかしたらもう16歳、大人になったのだろう。
どうにもならないことを何とかするのが人生ではなく、どうにもならないと思っている自分をどうにかするのが人生だ。
最後に彼は「歩く練習をしていたのは、俺も同じかもしれない。いつか歩けるようになったら会いに行こう」と言った。
彼が闇雲のようにぶつけた本心は、ほんの少しズレれば彼女を激しく傷つけただろう。
その事を彼は、いま、理解できた。
どうしようもない心に折り合いをつける。
切なさと成長
この切なさを描くことこそ新海監督の真骨頂かもしれない。
非常に深い物語だった。
本当に素晴らしかった。

R41