「惜しい。だが、それでも挫けずこの「映像文学」を読んでほしい。」言の葉の庭 yukiさんの映画レビュー(感想・評価)
惜しい。だが、それでも挫けずこの「映像文学」を読んでほしい。
!超長文注意!
鑑賞後の熱量ととこの作品に惚れ込んだ故に抱くもやもやと勢いに任せてぶつけた。
超長文だがまだ見ていない、見ようか迷っている人にはぜひ読んでほしいです・・・。
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新海監督の作品を「絵がとにかく凄かった」とのみいう人もいれば「絵だけは一流」と辛口な感想を述べる人もいるし、「画だけでなく名作」と讃える人もいる。
今回もそんな感じのように思う。
この違いは一体何なのか考えてみた。
で、それは「何を受け手が求めているか」という事の差異、という結論に至った。
もちろんどこまで求めるかに観客の質の優劣を付けるつもりは無い。
新海作品は「画」のみでエンターテインメントとして完結してしまえる以上、それのみを求めて行くのすら十分な理由だと思う。
とりあえず受け手が何を求めるかでこの作品の満足度は大幅に変わってくる、という事をまずここに書いておく。
私は映画館で鑑賞した。
画造りは安定の新海クオリティどころか驚愕の新海クオリティだった。
確実に過去のどの新海作品を遙かに凌駕していて感動。
作品の8割を占めるという雨のシーン。
それだけに他のレビューにもあるが水の表現が素晴らしい。
水たまりの波紋、タイルを打って跳ね返る雨、窓を伝う雫…。
雨だけに絞っても小雨、夕立、土砂降り、霧雨等々を見事に表現している。
それらはどれも当たり前で、誰もが見たことのある風景。
なのに何故か新海作品において当たり前の風景は、穢れ無き、触れてはいけない神聖な物かのように見える。
雑多とした新宿の町並みでさえ、足跡一つ無い雪原のような処女性に溢れている感じ。
なにより凄いのは、アニメという「画に起こせるなら何でもアリ」な表現手法を取りつつも、その可能性をあえて捨て「実写にどこまで近づけるか」というベクトルに賭け、見事に<非現実的な現実にある風景>を描き上げている点だ。
そんなのできるのは新海誠ぐらいかと思う。
こう書くと「過去の新海作品でもそうだったじゃん」と言われそうだが、今回の作品においてはその美しさは過去の作品とは別次元だった。
加えて売りの一つの「反射光の描写」が良い。
反射光、つまりは背景の風景に当たった光の反射による照り返しを、背景の色彩を人物に反映させ(簡単なようで色彩選びが難しいという)反射光を再現することで、人物は背景に馴染みつつも画面の中で浮き上がり、より印象的な仕上がりとなっていた。
過去に新海作品を見たことがある人はその新海誠の表現の幅の広がりに驚くのではないか思う。
もちろん画だけではない。
話の展開、コンセプト、舞台、万葉集の相聞歌や靴作りというキーワード、タイトル、コピー、どれもが洗練された物だった。
プロットは完璧といえる。
特に「言の葉の庭」というタイトルと「“愛”よりも昔、“孤悲”のものがたり」というコピーは視覚的にも聴覚的にも美しく、文字から色が浮き上がってくるような力を持っていて、思わず声に出して読みたくなる日本語でだなあと思った。
シーンで言うとやはりクライマックスの雨打つ踊り場の場面を見て欲しい。
孝雄の不器用で悲痛な愛の叫びが胸に突き刺さって、ヤラれる。
あの入野自由の熱演に是非心震わせて欲しい。
あれは語り継がれるべき名演だ、とすら思った。
本当に、とても良かった。
しかし上映終了直後の私は期待していたほどの感動も出来ず、ただ首をひねり、もんもんとしていた。
アラや甘い点はあるけれど、プロットは完璧だしとても素晴らしい。
考えれば考えるほど絶賛するに値する作品であると感じる。
ではなぜそうなったか。
その原因は恐らくこの作品の余裕の無さではないかと思う。
分かりやすく言うと40分と少しという短い時間でまとめあげた構成が足を引っ張っているという事。
この作品は極端なほど主人公二人の逢瀬、“孤悲”のみに絞って描かれている。
本当にそれのみで、他の登場人物もあくまで二人を描くための単なる背景としての役割しか充てられていないに均しいと感じた。
雑多な情報は廃棄され、二人の事のみが描かれる。
こういう演出があってもいいと思う。
が、問題はコンパクトにまとめるために主人公二人の間の出来事も物語を描く為の最低限にまで削られていて、非常にシャープに「無駄一つ無い」構成となっている事。
それが非常に惜しい。
作品に無駄が無い、余裕が無いという事により、行間を読み切れず話が進んでいくからだ。
新海作品は映像文学であるという。
新海作品の登場人物の語る言葉が表す事はほんの極一部で、登場人物の表現や仕草、背景や環境音、小道具に至るまでを観察することでようやく何かが見えてくる気がする。
つまりは<行間を読む>ような行為が鑑賞するのに必要ではないかと思う。
にも関わらずこの映像文学は紙の上の文学とは違い、否応なしに物語は進む。
本を置いてゆっくりと展開を思い出して登場人物の心情を測る事は出来ない。
つまりこの映像文学においてはある程度の行間を読む余裕が作られていないと、十分に行間を読む事が出来ないままに進んでいくのではないかと感じる。
そしてこの作品は無駄が全く無いようにコンパクトに詰め込まれている。
それはそれで一つの形としてありだとは思うが、極度に削った事により命取りになってないかと感じだ訳である。
この作品の素材は素晴らしい。
話のプロットはとても良い。
しかし、それらの良さを作品の端々で感じつつ、作り手の表現したい事を拾い尽くすのは少々厳しい気がするのだ。
本当に素晴らしい作品で、大好きだ。
本当に惚れ込んだだけに、もしこの余裕の無い構造故に満足いかない人がいるならとてももどかしい。
分かりやすくしろ、とは言わない。
そんな安っぽい事をしてほしくない。
新海作品では本当に大事なところは台詞として語らせてはならないとすら思う。
ただ、行間を読む余裕を少しでも作るか、行間を読むきっかけがもう何個か欲しいのだ。
加えてこれは勝手な推測なのだが、画のみでエンターテイメントとして成立してしまうのが仇となって、物語を読み切らずとも満足して帰った人もいるのかな、と考えたりしている。
ネタバレになりかねないが例を挙げてみる。
例えば今回、「傘」が孝雄と雪野の距離を読む記号として出てきた。
雨の中「傘」をさして自分が雨に当たらない空間を確保する。
そうして歩いてきた二人が日本庭園の東屋という「傘」の下で出会う。
東屋の下で二人の“孤悲”が始まり、物語中盤に藤棚の下にて傘にまつわるある変化がある。
そして物語クライマックスでは「傘」が指していた距離について、孝雄は不器用な悲痛な愛の叫びで伝える。
「傘」を通して二人の距離を読んだかどうかで、ただ見ていても胸に響くクライマックスの熱量が10倍も100倍も大きくなると思う。
しかし藤棚での「傘」の変化に気付かない人がいるかもしれない。
繰り返すが、それを分かりやすく「傘」をアップに写したカットをいれたりはしないで欲しい。
分かりやすい意図的なカットを入れずにどうにかしてほしかった!(凄く勝手な事を言っている)
加えて“孤悲”という美しい古語、概念そのものを知らないであろう私達観客が見終わった後に「あ、これが“孤悲”という概念なのか」と気付くきっかけがもう少しあっても良かったと思う。
折角この美しい物を主軸において二人の物語を描いたのに、作品を通して“孤悲”の概念を理解しにくいことから鑑賞後に“孤悲”という言葉とこの物語をリンクさせづらい。
繰り返すが説明しろとは言ってない・・・!
・・・長々しく書いてきたがこの「言の葉の庭」は名作であると自信をもって言える。
ただ、その名作を名作として見れるか、物足りない作品とするか、ただ画がすごかったと感じるだけなのか、それは受け手による所がとても大きいと思う。
そういう意味で冒頭で書いた「受け手が何を求めるか」という事が重要だと感じた。
映像を楽しむために見てもいいし、普通に見てもいいと思う。
ただこの作品にほれ込んだ僕は、これから見る人には是非能動的に行間を読もうとして欲しいと身勝手に思う。
多分普通に見ただけだとあっという間にエンディングだから・・・。(←そうなりかけた・・・)
とにかく名作だ。