劇場公開日 2014年7月25日

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「こだわって欲しかったのは、呼び方だけじゃない。」GODZILLA ゴジラ とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0こだわって欲しかったのは、呼び方だけじゃない。

2023年6月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

単純

興奮

GODZILLAとMUTOの足元で逃げ惑う人間達。…
怪獣たちと人間達の話は交わらない。
  怪獣の出現に右往左往して、自分で自分達の首を絞めるような作戦をやって、自分達で後始末して…。
  そんなことにはお構いなしに、子孫を残そうと、卵を守ろうとするMUTO。MUTOを追いかけるGODZILLA。
  その対比がかえって怪獣の偉大さ、大きさを感じさせられた。
  怪獣も、人間も自分の大切なものを守りたいだけ。
まるで、人間の足元の蟻のような。
そんな圧倒感は体験できた気がする。

★ ★ ★

日本在留の博士に日本語を話させる等、細部にこだわっているところと、
そのストーリーってって、つっこみを入れたくなるところと。

広島・長崎の原爆、ビキニ環礁の水爆実験、福島原発、3.11。9.11を指摘するレビューも。もれなく網羅したことには敬意を表したい。
  とはいえ、ビキニ環礁の水爆実験を「GODZILLAを殺すためだった」というのを、人の力は自然にかなわないということを言いたいのだとするレビューもあるが、第5福竜丸や被爆した他の船のことを考えれば、それでもそう言ってほしくなかった。特に芹沢博士には。
  そして、一番の違和感は、核の扱い。核爆発の本当の怖さを知らないなと思う。とても軽く扱われていて、かえって怖かった。
  かつ、自分の死を覚悟して核爆弾を街から遠ざけようとする行動。日本だったら、死を覚悟した潔い行動への賛美になるんだけど、USAでは間一髪で助けに来る。
  第5福竜丸は、ビキニ環礁爆心地から約160kmのところで被爆したと聞く。映画で核爆弾を西海岸沖で爆破するようにセットしてから、セットした人物は泳いで離れるが、160km以上も泳いで離れられる設定なのだろうか?それとも、原爆でもそうであったが、爆破直後は無事だったが、後から後遺症に苦しむ設定なのだろうか?
  尤も、怪獣たちが放射能をばら蒔いているから、核被爆を心配するのは今更なのかもしれないが。

科学研究倫理の象徴・芹沢博士。
  他のレビューでも指摘があるが、この映画の芹沢博士は、原点(1954年)の芹沢博士のオマージュとされるが、立ち位置は原点(1954年)の山根博士に近い。

自分の研究が、人類に害をなすことを恐れ、そうはさせまいと信念をもって行動した原点(1954年)の芹沢博士。
それに比して、この映画の芹沢博士は…。換骨奪胎。だったら、出してほしくなかった。

監督・制作陣の、ゴジラ・怪獣映画に対する愛は溢れんばかり。それは感じる。
でも、核に関しては、監督・脚本家・制作陣どころか渡辺氏もまったく興味がないのだろうなあ。”世界の渡辺”とか持ち上げられているけれど。日本人として、一番肝心なところが抜けている。
 安易に、広島・長崎の原爆やビキニ環礁の水爆、福島原発を入れないで欲しかった。入れるのなら、都立第5福竜丸展示館や広島原爆資料館・長崎原爆資料館を訪れろとはでは言わないが、ネット情報ぐらいはチェックしてほしかった。後遺症に苦しむ人々、福島原発の風評被害を始めとする被害くらいは認識して物語を作って欲しかった。

★ ★ ★

GODZILLAがなかなか、全貌を見せない。
そのことを残念に思っているレビューもあるが、私的には満足。
一部しか見えないことで、その巨大さにワクワクしたし、全貌を見せた時、最初の咆哮に陶酔してしまった。一部を見せる、その見せ方も芸術的。
 うまい演出だと思った。
 でも、”破壊王”としての迫力は原点(1954年)の方が圧倒的。映像としての被害の大きさ。GODZILLAの大きさは本作の方が圧倒的なのに。何故?

ただ、宣伝で煽っていたほど、終末観、絶望は感じなかった。怪獣慣れしているのかな?
ストーリーを真剣に追わなければ、場面場面は迫力満点。

『ゴジラ』は原点(1954年)と本作のみ鑑賞。
なので、長い歴史は語れない。
それなりに楽しませてくれたが、原点(1954年)には及ばない。

とみいじょん