風立ちぬのレビュー・感想・評価
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草食、ゆとり世代は分からない
子どもの頃に見た透き通る青空と青い緑の美しい中で、親世代から聞かされた貧しい何も無かった時代に、国造りの為には、大事な人の命が消え失せようとしても、見返りもないのに涙を図面に落としながら努力するなんて、世界一の長寿国で、豊かな安全な平和ボケした国に生まれた世代は理解できない。自分の時間を大事にして、恋するなんて、面倒くさがりの世代は、一緒に居たいという意味は分からない。こんなに必死に生きても、見返りどころか大切な人を失うつらさに、身に詰まるほど、心が締め付けられました。
がっかりでした
宮崎アニメの復活を期待していましたが、正直、がっかりしました。どうも「ハウルの動く城」あたりから、宮崎駿監督の感性が、大多数の人々の欲求に答えられなくなっている気がします。短いカットでの神通力はあるものの、映画トータルで何を観客に伝えるのか?整理できていなかったのではと思います。 また、どのように観客に伝わるのかを考えることも、周りの意見も聞くこともなく、ただただ自分が気に入ったもの・作りたいものだけを映像にしているのでは?と考えてしまいます。
それにしても、最後まで、主人公に感情移入まったくできませんでした。素人を声優に設定するのに反対はしませんが、長時間、素人の吹き替えを聞いているとイライラしてきます・・特にラブシーンのところ。それにひきかえ、奥さんが清楚で健気で、いっそ、主人公を反対にして、この映画の唯一の救いであるラストの「飛行機雲」を際立出せた方がよいと思いました。
美しさの追求
公開翌日に鑑賞しました。
その時は正直なところ、印象に残らない映画だなぁ…と感じていました。
なんだか物足りず、消化不良だと。
しかし、ふとした時に映画の場面を思いだす。じわじわと心にせまるものがある。
映画が終わった瞬間がピークではなく、終わってから心が動かされていく経験は初めてでした。
それから映画に対する様々な評価、意見を聞き、自分の中で抱くイメージが少し変わり、もう一度映画館に足を運び、自分の目で確かめようと思いました。
そして、2度目にこの映画を観た印象。
それは、怖いくらいの「美しさ」への追求です。
夢の中での朝焼けの美しさ、飛行機の美しさ、菜穂子の美しさ。
夫婦として2人が過ごした時間の描写は、本当に純粋。まるで子ども。
極めつけは、「美しいところだけを好きな人に見せたかった」という菜穂子の行動。
苦しみながら、最後まで一緒に生きていくことはできなかったのか。
綺麗なところだけを見せた菜穂子に、二郎は永遠に心をしばられてしまう。そんな風に菜穂子は考えなかったのか。
最後の「生きて」のシーンは本当に残酷だと思いました。
それとも、菜穂子にそんな行動をとらせた、美しいものを愛してやまない二郎がいけないのか。
美しくなければ愛してもらえない、美しい自分のままでいなければ、と菜穂子は思ったのかもしれないし。
そう考えると、二郎と菜穂子の愛は、お互いのエゴが合致した形なんだと、勝手に解釈しています。
そして、そんな2人を中心に、世界は限りなく美しい。
何もなくて、貧乏な日本ですが、2人にとっての世界は美しかった。
人間の欲求や汚れをぬきに、美しい部分だけを徹底的にきりとった、無邪気な愛の映画だと受け取っています。
賛否両論が百出するのも、宮崎駿の底力なのでしょう。
私はただ単に、素晴らしい友人・上司・同僚・伴侶に恵まれ、自分が心から熱中できる仕事に打ち込むことのできた幸運な人物の半生を描いた映画として受け止めました。
線路上を往く失業者も、銀行の取り付け騒ぎも、あの「シベリア」の女の子も、主人公と彼を取り巻く人々にとっては所詮他人事であり。
兵器開発者の戦争責任がどうとか、「生きて」とか「生きねば」とか、そんな大袈裟な言葉が似つかわしい映画では無いと感じました。
我儘で慢心した「日本の美徳」
とりあえず劇場で見てきましたが、
ジブリの作品としてはいまいちまとまりがなく。
現代の若い人にはわかり辛い人間観ではないでしょうか。
良くも悪くも宮崎駿監督の思想と主張が出てしまった
そういう作品のように感じます。
まず一番残念なのは庵野監督の声。
確かに合っている面もあるにはあるのですが、
若い頃の声や通常のシーンでの声がどうしても浮いてしまって
聞いていて常時違和感がありました。
ただカプローニとの夢のやりとりや
技術の向かうベクトルに対するやりとり、
そういった監督本人の考えと主人公の考え方が
同じ方向性を向いたときの台詞は良く合っています。
また年をとった二郎の声はしっくりくる感じではありました。
ただとにかく二郎というキャラクターの躍動感に対し、
落ち着いた監督の声が合わず、違和感が半端なかったです…。
また作品自体は間延びしすぎていて、
シーンとシーンの繋ぎとテンポがあまり良くなく。
何よりも主軸としたいシナリオがぶれ過ぎていて
どこもかしこも間延び状態という印象が強く。
子供さんには酷く退屈な作品のようにも感じられます。
作品の中の堀越さんの生き方と言うのは
現代日本では恐ろしいほど希薄になった
「日本の美徳」であると言えます。
最後の台詞「地獄かと思いました」
「けれど"一機"も帰ってこなかった」
これらの言葉は彼が人のためではなく、国のためでもなく、
本当に純粋に"飛行機"のために人生をかけ、
恋も愛も後ろに置いて、何もかもを置き去りにして
それでも自分の人生の指針である飛行機を追いかけた
そういう人生であったことを物語っています。
現代の若者から見ればなんて慢心的で、
自分勝手な考え方と生き方で、
泥臭くて惨めな生き方だろうと鼻で笑うでしょう。
けれど、日本の本当の美徳とはそこにあったはずです。
それは宮崎駿監督のアニメ映画にかける情熱のそれと同じです。
この作品は堀越二郎の天才的な技術がっと思われがちですが、
その技術を支え共に作り上げたのは、彼と同じように
血反吐を吐くような思いをしながら飛行機を作り上げ、
同じように彼と共に技術を切磋琢磨した技術者達。
また飛行機開発の技術に関しても、
同じように高い技術を追求し続けた部品があったからこそ
彼の天才的な設計は活かされていく。
そこにはスポットが当たる技術もあれば、
日の当たらないところでその舞台役者を支える。
そんな技術が必ずあるものです。
人間も国も技術者も、そして妻さえも全てを踏み台にして、
日本の貧弱なエンジンを使い、あそこまでの機動性を誇る
零戦という飛行機を作り上げた、堀越二郎という人間。
ここのコメントを見ていても思うのですが、
「戦争が~」「戦闘機を作っておきながら~」「政治的な思想が~」
「被害者が~」「結婚観として~」「常識的に~」
やはり人間としての生き方に欠落している現代人らしい
コメントが多く感じられます。
この辺りが我武者羅に生きることに情熱を失った
現代日本人の象徴的な面だと言えるかもしれません。
今の日本は日の当たる場所ばかりに目が向けられ、
お金や肩書ばかりに気を取られ、
そういった自分の誇りに対する向上心や社会性が失われている。
スマートで小奇麗にまとまった生き方ばかりに気を取られ、
泥臭い、懸命な生き方を小馬鹿にしているために
結果として自分の首も国の技術と言う首も絞めている。
自分という生き方に誇りを持てない生き方の人ばかり。
だから、この作品の主人公とそれを取り巻く人々の生き方。
それを本当に理解できる人はかなり少ない気がします。
菜穂子が山から降りてきて、結婚を申し出た時。
黒川夫妻のやりとりに本当に心が揺れました。
黒川は結婚を申し出た二郎に対して、彼女の身体を考え、
二郎自身の生き方、考え方、二人の決意。
決意の全てを、ただ社会性や常識で見るのではなく、
二人を個性を持った人間として認めているからこそ、
あの結婚を認めたのでしょう。
傍からみれば身勝手で、常識のない行動、
それに対してきちんと人間同士として解り合い、
そして何よりも認め合う。
そんな「美徳」が確かにそこにはあるのです。
そこまで述べた上でやはり残念なのは
作中での「菜穂子」の生き方です。
二郎自身が自分の生き方や「仕事」
と向い合って「美徳」を貫いているのに対し、
やはり「菜穂子」に関しては男性視点が強く、
「女性らしい美徳」の押し付けがとても強い。
これは宮崎駿監督自身の考え方が、
とても男性的で女性の描写に関しては、
とても弱い面が強く出ている気がします。
原作の「風立ちぬ」の作品性もそうなのですが、
元となった堀辰雄さんの奥様、
矢野綾子さんはその最後の時まで、
自身の生き方である「絵画」
と向かい合われていたそうです。
彼女もまた「美徳」に生きた人なのだと思います。
だからこそ、「夫への愛情」という点、
「女性としての生き方」という、
少し男性の都合の良い視点に対して
「美徳」を見出してしまっている
「菜穂子」という存在は、確かに美しいのですが、
どうしても違和感が残る気がします。
やはりこの作品は「男性」の作品なのでしょう。
「コクリコ坂」でもそうではありましたが、
昭和を舞台にした今回の作品もみて
やはり思うのは、昭和に対する懐古的な盲信が
どこか作品にはしみついている気がします。
実際、昭和という時代は敗戦後、それでも
なんとかしてやろう!っと手にした自由を握りしめ、
誰しもが熱く挑戦を繰り返していた時代です。
「日本の美徳」というのは恐ろしく強かった時代でしょう。
しかし実際には泥臭く惨めな面も強く合った。
その中で「このままではいかん」と戦い続けた人たち。
躍起になって躍進する子供と、それを受け入れる度量のある大人。
そういった現代では希薄になっている、
「生きねば」という感情がこの作品には凝縮されています。
泣きながら電車に飛び乗り、
その車内でも懸命に仕事をし続ける二郎。
婚約者が倒れていても終電に飛び乗り、職場に戻る二郎に
「男は仕事が」っとその心を汲み取り背中を押す父。
二人の結婚に対して、自身の意見を説いたうえで、
何も言わず二人の心を重視する上司。
枯れていく自分の命の一番美しい瞬間を愛する人と
過ごす決意をして、短い時間に愛を注いだ妻。
その全てが「生きねば」という言葉に向かっている。
それぞれがそれぞれの命を懸命に「生きて」いた。
そして懸命に生きた彼らの生き方は、
きっとどこにも残らないまっすぐに美しく伸びた
飛行機雲のようにその軌道を残してゆっくりと
消えていくのでしょう。本当に美しいと思います。
本当に素晴らしい生き方を見せていただきました。
映画としては構成の悪いさ、声優と言う点で2.5点と
させていただきましたが。
実際に見た心に対する余韻は。
もっと高い点数をつけたい気持ちでいっぱいです。
それだけ人間描写的に見れば素晴らしい作品で合ったがゆえに、
アニメーションの作品として構成が弱いのは
本当に残念な作品であるとも言えます。
あっ、かぐや姫の物語は主題歌が二階堂和美さんらしいですね♪
もうCMのそれだけで心躍ってしまって、満足してしまって
今からワクワクしている自分が居ます(待)
僕の好きなジブリは後半40分間のみ
さんたです。
ジブリが好きだからこそ、正直に書きます。
僕の好きなジブリ色が出てきたのは、開始から1時間20分後からでした。主人公の恋愛の部分でした。とても素敵で繊細でした。
劇場で見るということはお金がかかるのですが、このラスト40分はとてもよかったです。この40分のためにだけ観る価値はあります。
しかしながら、この場面に至るまでには退屈してしまいました。同じような感覚を「借りぐらしのアリエッティ」でも、感じました。
しかしながら、借りぐらしのアリエッティよりは、楽しめました。
今回で宮崎駿先生の作品は最後かもしれません。そのような内容の作品だと思いました。
好きな方にはとても好きな作品だと思います。アニメーションも綺麗です。
僕は、ラピュタ、ナウシカ、もののけ姫、千と千尋の神隠しが好きです。
辛口ですが、劇場で見ることをおすすめします。良い場面は、やはり大スクリーンで!!
映画館ではなくTVアニメで充分
堀越二郎のゼロ戦の開発物語だが、特に奮闘することもなく天才的な発明をして終わり。全然感情移入できなかった。
婚約者の里見菜穂子も特に寝掘り葉掘り深いストーリーまで追求することもなく終わり。
うーん、これはちょっとなあ・・・・
それと庵野秀明よ、棒読みもあればまあまあなところもある。
決して悪くはないが、まだまだ素人レベル。もう少し練習しましょう。
夢である飛行機が戦争当時では零戦のような殺戮兵器にしかならない・・・
その設定をもっと生かして苦悩を描きましょうよ。
実話に基づいていますが、劇場アニメ化するのならもう少し捻るべきでしょう。
一機も戻って来なかっただと?
悲しい理由その1
声優の仕事って重要でしょ?主役にド素人使ってはなりませぬ
悲しい理由その2
「一機も戻って来なかった」って言った?一人じゃなくて一機って!?結核の妻の側でタバコを吸う鈍感な主人公は、自分の作った物に人が乗って死にに行った事は、心に引っ掛からないらしい。せめて零戦なんか作らなきゃ良かったよって言って欲しかった。
見終わって、考えてたらだんだん腹さえ立って来たよ。
期待はずれ・・・。
すごく期待をしていただけにがっかり。正直最後まで、主人公に共感が出来なかった。全然泣けませんでした。
主人公の声優さんがあまり上手じゃないし、棒読み?なせいなのだろうか....。
零戦を作った人、飛行機に対するその情熱はわかったけどもう少し戦争の中で零戦がどのように戦ったのか、零戦に乗り込む人々・飛び立つ様子や戦争の場面があっても良かったのではないだろうか?大人の映画というのなら....。
「零戦は一機も戻ることはなかった」という主人公の淡々と語る様子もいまひとつ。声優さんが棒読みのせいかな・・・・?
「生きねば・・」を強く訴えている?・・・あまり感じなかったけど、何か。
「千と千尋・・」のようなインパクトもない、ちょっと残念な作品でした。
爽やかの一言
良くも悪くも・・「爽やかな映画」でした。
他のジブリ作品とは実在の人物を描いているという点からいってもちょっと毛色の違う内容になっています。
堀越二郎さんという人物--私は全く知らなかったのですがストイックな技術者だったのであろう部分が良く描かれています。
昔の人ってあんな感じなんだろうなと思ってみれば違和感も感じず。
奈緒子さんを病院に戻させない辺り等。。「死」を諦めているのではなく受け入れている所も現代人の私たちにはありえないあの時代特有の感じ方・・だったのでしょうか。私のイメージにあるゼロ戦は濃いグリーンに日の丸が描かれていて「これで、戦ったのか」と思う程古めかしく小さいものなのに二郎さんが設計していたゼロ戦は真っ白ですごく綺麗で新しく想像とは違うもので・・そう思うと切なくなりました。
1920年代は戦争に突入していく前の束の間の綺麗な時代だったのかなと思わせずにはいられません。奈緒子さんが最後に夢の中で「二郎さん、生きて」と言いすぐ笑顔で「はい」と答える所等、、「えー、そこはちょっと苦悩してから返事してよ」と思ってしまったのですが。。ま、いいか。
いつものジブリ作品を期待される方にはちょっと違うかもしれません。
良い映画ではありましたが、ちょっと退屈な所もあったかも。隣でやってた
「ワイルドスピード??」辺りの映画の「ドーン」ていう音響が聞こえてくる位静かな映画で、次は「ワイルドスピード」観たいなと思っちゃいました(笑
あれが君のゼロか!
『千と千尋の~』の時に宮崎駿監督が「近所の10歳の子供のために作った」的なことを言っていて、観終わって「ははあ、あんまり面白くなかったのはこの映画が俺に向けて作られてないからだな」と思ったのだけど、その後のハウルもポニョもあんまり面白いとは感じられず(すごいとは思ったけど)、それは自分がもう大人になったから波長が合わなくなったのかなーと思っていた。
今回の『風立ちぬ』は矛盾の映画だと思った。美しい飛行機を作るのが夢なのに、それは人殺しの兵器であるという矛盾。仕事に本腰を入れるために結婚するという矛盾。主人公は美しいものが好きで、奥さんに「きれいだ」しか言わない。奥さんもそれを分かっていてきれいじゃいられなくなったら山の療養所に戻っていく。ゼロ戦について「1機も戻ってこなかった」というけれど、ゼロ戦がどれだけの人を殺したかは言わない。結核の奥さんの横で煙草を吸うところをわざわざ入れるところとか、エゴを意識的に描いている感じが抜け目ないと思った。
人物のデッサンが時々すごく下手に見えることがあって、どのキャラクターも不定形な感じがした。
すごいとは思ったけどやっぱり波長は合わなかった。
一期一会
私の父は、元海軍兵で太平洋戦争を経験しており 私が幼いころ、父は、よく飛行機の絵を白い紙に鉛筆で書いて、エンジンや翼の構造を何もわからない私に、教えてくれました。父の仕事は、海軍の飛行機の整備士でした。
零戦の整備も携わった聞いております。当時、零戦を見たときは、俊敏な動きに衝撃を受けたと聞いた記憶があります。ところどころの映画のシーンで鉛筆で書く白い設計図を見たとき、亡くなった父の記憶が蘇りました。
主人公が設計の計算に使っていた計算尺も懐かしいです。今の若い人は、あの道具が何なの知らない方も多いと思います。私の工業高校時代は、計算尺で計算してました。
風立ちぬを見て、その時代に、生を受け 幼いころから 空に 憧れ、その空を飛ぶ夢を いつまでも 持ち続け どうしたら 効率よく 美しく飛べるのかだけを 戦争の武器としてでなく 幼いころの夢をひたむきに 追い求める強い姿に 大変感動しました。 いつの時代も この主人公のように
悲しいことがあってもそれを乗り越え、夢を持ち続けて強く生きていかなければと教えてくれました。
宮崎さん 鈴木さん ジブリの皆さん 良い作品ありがとうございました。
零戦のような男の物語
一、 歴史的事実とリアリズム
冒頭の夢想的な飛行シーンと、分厚い瓶底眼鏡が少年期の堀越二郎を象徴的に表現している。彼は田舎の豪邸の蚊帳の中で夢を見ている。外界から何重にも守られた温室の中でまっすぐ育つ、夢見がちな少年として描かれるわけだ。関東大震災は、そんな夢と現が交錯する大正末期の少年と、九十年後の我々とをつなぐ架け橋として機能する。誰もが知っている関東大震災という歴史的事件のディテールを、この映画は詳細に復元していると思われる。道幅が狭すぎて将棋倒しに倒れる民家、火事によって発生した竜巻の遠景、神社で倒れる灯篭、俯瞰視点で描かれる都心部の混乱。堀越青年と菜穂子はその中を駆け巡る。
この映画は基本的に堀越二郎を中心に描いており、映像の中でも最も多いのが堀越二郎の顔だろう。そして、その堀越二郎が惹かれ続けた飛行機もまた、たくさん描かれている。しかし、そのどちらでもないにも関わらず、関東大震災の描写は細かく、細部まで描かれている。また、汽車が爆発すると早合点し逃げる乗客や、避難先の神社で倒れる灯篭に驚く人、荷物を持って都市の中を逃げ惑う人々など、堀越青年と菜穂子を離れてそこに暮らしたその他の人々がクローズアップされている。この映画は観客を作品世界に没入させるための道具立てとして、関東大震災に見舞われた東京のディテールを描いている。そうしたディテールへのこだわりは、その後も飛行機を牛で運ぶといったユーモラスなエピソードや、シベリアパン、二郎と菜穂子の結婚シーンにおける婚礼の儀式など、当時の風俗を描く描写で所々に発揮されている。引き込んだ作品世界を最後まで支えるのもまた、歴史的事実を元にしたディテールの描写なのである。
二、堀越二郎の人物造形
主人公の堀越二郎は、夢を一途に追う男である。それは、魚の骨に飛行機の部品を想起してしまう程に徹底している。周辺にいる家族や友人に優しさは見せるが、あくまで自身の飛行機に乗りたい、目が悪くてそれが不可能だと知ってからは飛行機を設計したい、という夢を優先し、そのためには他のことを犠牲にするところがある。
妹と遊んでやらない少年時代、一度も実家に帰らない学生時代、早く学校に行くために名も明かさず立ち去ってしまう菜穂子との出会い。軽井沢での静養以外では関東大震災後に一度だけ上野を訪ねたのが唯一の例外で、それも実にそっけなく語られる。結核で喀血した菜穂子に会いに行く途中でも、仕事の手を休めることはないし、家で結核の末期患者である妻が待っていると知っていても、誰よりも遅くまで仕事をしている。作中、彼は少年時代に魅せられた夢に向かって進むことを基本的には止めない人間として描かれている。
まるで、冒頭の分厚い瓶底眼鏡ごしに見る歪んだ堀越少年視点が、堀越少年のライフコースだけでなく人生に対する姿勢までも決めてしまったかのように、堀越二郎は歪みを伴いながら夢という焦点に向かって進み続ける。
三、美しい風景
そんな人生の全てを飛行機に捧げる男が、一敗地に塗れて訪れるのが軽井沢である。カストルプが言うように、軽井沢は「全てを忘れさせてくれる」「魔の山」である。ここでも最初堀越は親切さを見せはするものの、簡潔でそっけない。
その後急速に堀越と菜穂子の恋愛は進展するが、それは軽井沢の美しい自然の風景の中で進行する。カプローニの夢の風景は美しさと陽気さ、そして少しの残酷さを伴って描かれるが、恋愛の風景はそうした夢の風景ともまた少し違ったトーンで描かれている。それは堀越二郎の人生でおそらく最も幸福な時間として設定されているからだろう。
他にも後に結婚し、棲むことになる黒川の家の庭、庭先から訪れる菜穂子の実家など、恋愛に関連したものを中心に美しい風景描写は多く見られる。視覚的な美しさだけでなく、仕事場で当時の先進的な技術に目を輝かせる若い技術者達や、夫婦が一晩中手をつなぐシーン、零戦の成功など、理想的な人間関係や仕事の成功も描かれる。逆に、仕事の失敗、スポンサーやクライアントとの打ち合わせ、結核患者の菜穂子の闘病シーン等は描写的には一瞬ほのめかされるだけである。
この映画は基本的に美しいもの、堀越の人生における美しい経験だけを抽出してつなぎ合わせている。
四、ほのめかされる存在
しかし、少年期の夢の中で既にカプローニによって言及されていたように、堀越の夢は戦争に直結している。半分は帰ってこないだろうというカプローニの冷静な判断は、飛行機作りという夢の残酷な一面をほのめかす。また、軽井沢でカストルプが言ったように、降りたらもう戻れない魔の山・人生の絶頂期の軽井沢のあと、菜穂子の雪が降る孤独な結核療養所での治療シーンがわずかに描かれる。このシーンは、美しいところだけ見せたい=美しくないところは見せたくない、と黒川婦人に解説される菜穂子の失踪後の人生を想像させずにはおかない。
飛行機作りの残酷な側面を「呪い」として何度も語るカプローニ、戦争へと突き進む日本やドイツの世相を軽口で語るカストルプ、重度の結核患者でありながらそのことを意識させないように毅然と振舞う菜穂子と、そのことをはっきり二郎に伝える妹。この映画は人生や世界の暗部を決して無視してはいない。むしろ、そうした暗い部分が、堀越二郎の夢に向かって邁進する姿、最後まで青年期の容姿を保ち続ける美しい青年の一途さによって逆照射される。
この映画は存在をほのめかすことによって観客の想像を掻き立て、直接は描かれない暗部を含んだ歴史の世界へと我々を誘おうとしている。
五、極限まで無駄を省いた美しい人生
堀越二郎は夢を追う。そして、その夢の一つの到達点である零戦は、作中ではエンジンが非力なために「極限まで無駄を省いた」機体として説明されている。この説明は、この映画で描かれている堀越二郎の夢に向かって邁進する人生そのものである。最後のカプローニとの夢で、無数の戦闘機の残骸を踏み越えた二郎は「地獄かと思った」と呟く。決して直接焦点は当てないが、ほのめかされる巨大な歴史の暗部もまた彼の人生の一部であったことが、ここで明確に描き出される。だが、それをもってこの作品は、堀越二郎の人生を否定することはない。恋人に美しいところだけ見せようとする菜穂子のように、美しいところばかりを描きつつ、そこにできる影の存在をほのめかすこの映画の構造自体が、美しい青年が描いた美しい夢であり、同時に誰も帰ってこない死地に人々を送り出す兵器でもあった零戦と、それを作った堀越二郎の人生の両義性を浮かび上がらせている。
この映画で描かれる堀越二郎は、極限まで無駄を省いた、美しさと残酷さを同居させた青年なのである。
凝縮した人生。
キャラクターの全てが、生きている。
自分の意志をもち、魅力をもち、
苦しい時代だからこそ、凝縮した人生を生きようと、描かれている。
主人公の堀越二郎などは、最早、完璧超人の部類なのだが、
内に秘めた想い、悩みや憤り、哀しみや弱さを抱えている。
それを表現しているのが、無言の表情であり、なんと、庵野秀明の声であった。
正直、
どっからどー聞いても庵野さんの声なんだけど、
ヘタだなとか、棒読みだなと感じたときは、一度もなかった。
巧いとゆーわけでもないが、
このヒトの声は、この声なのだと、おもうことができた。
むしろハキハキと発音されるプロの声では、このキャラクターは生まれなかっただろう。
また、
予告で大きく取り上げていたロマンスに関しては、じつは、本編の半分ぐらいだった。
作品の中で、とても大きな意味をもつけど、悲哀がメインとゆーわけではない。
あの予告では勘違いする方もいるんじゃないかな?
戦争を描いていない、現実の悲惨さがない、ともあるが、
これは誤りで、
ちゃんと描いていますよ。
直接的ではなく、この作品に合ったやり方で。
『風立ちぬ』とゆー映画は、
感じることが大切な、そんな作品だと、おもいました。
普通に楽しめたけどな
賛否両論あって当然だけど、難しい背景は置いておいて、普通に上映時間中楽しめたけどな。
絵が美しいのは言うまでもないが、地震が起きた際の地響きというか唸り声が本当に恐ろしかった。阪神大震災を経験しているがあの時の記憶が鮮明に蘇るほど怖かった。
あと、私はジブリ映画で低評の棒読み素人声優さんの声が反対に好きです。
実際普通に話す時ってあんなもんでしょ?日本の声優さん、特に上手い人は海外ドラマの声優をものまねする友近っぽい感じがして、リアリティにかけていると思う。ジブリはアレでいいと思う。
結核については何も知識がないが、山奥のサナトリウムみたいな所に若い女の子たちが毛布に包まってベットを並べてる場面を見て胸が痛くなった。あのシーンで私は平和な時代に生きているのだと痛感させられた。
戦争映画としてみる人も多いようだが、私は恋愛ラブストーリーとしてみたので映画の感想としてはとても爽やかで良かったです。
美しいこと
これまでにないくらい、美しいものを詰め込んだ映画。
この映画を見て私(20代です)は、あまり知らない結核の時代の文学や
日本近代史、そう遠い昔のことじゃなく私たちの国で実際にあった出来事、
かつて生きた人たちのことをもっと知りたいなと思いました。
さてこの映画、夢と恋というありふれたテーマを
とても美しく描かれていました。
二郎の夢はただ美しい飛行機をつくること。その夢を見失いかけた時
菜穂子が白い紙飛行機を受け取ってくれて、二人は子供のように
紙飛行機を飛ばして遊んでいます。本物の飛行機じゃないけれど
その紙飛行機こそ、二郎が描いた美しい夢に近かったのではないかと思います。
菜穂子は、結核を発症したあとも二郎がきれいだよ、大好きと
言ってくれたから、病気の辛さも弱音も漏らさず、美しく優しくいられる強さを
持てたんでしょう。高原のサナトリウムで一人涙ぐんでる菜穂子はどこか幼くも見えますが
二郎のそばにいる時の菜穂子ははっとする程大人びていて美しいです。
恥ずかしくなるくらい、シンプルで分かりやすいラブストーリーに見えますが
見る人の人生経験や恋愛経験に応じて、抑制された表情やセリフ、物語の行間に
実はいろいろ感じるものがあると思います。
震災の時、菜穂子が自分たちの荷物を持って行くのをあっさり諦めて
代わりに二郎のトランクを一生懸命運ぶ健気さに驚きましたが
大人になった彼女も、いつも自分の荷物は何も持ってなかったですね。
電報で菜穂子が喀血したことを聞いて、転げながら鞄に仕事の資料を詰め込む二郎の
姿も心に留まりました。他にはあれほど取り乱すこと無かったのに。
ふたりとも、大人だけど、子供のようにまっすぐに、
自分の分身みたいにお互いのことを思いやっていました。
国同士の思惑、前線で死んでゆく人々、罪もなく犠牲になる人々、
日本で戦争のあった時代を描く映画ですが、それらはあまり描かれません。
私はそれもありだと思います。
時代を捉える目線はいろんな角度があり、同時にすべてを知る人はいないから。
国が戦争に向かっている時、いつも通りの日常を過ごし
自分の目の前の仕事に集中し、出会った人と真摯に向き合う。それは愚かなことじゃない。
ひと一人の生きる世界や世の中を見る視野ってそんなに広くはないと思います。
テレビで見るほど、現実は単純ではなく分かりやすいストーリーがあるわけでもない。
一人一人の人生や、生きる意味、夢とかいうものは
世界の大きな動きに比べたら、すごくちっぽけなものかもしれないし
でも自分自身にとっては、何よりかけがえのないものになり得る。
そんなことを思いながら、自分が出来ることを精一杯生きた人たちの物語を見た気がしました。
どんな人も、自分が生きている時代や周りの環境と関係を持たざるを得ないけど
それでも、美しいものを達成することはできるのかな。
単なる感動だけではない、不思議な余韻が残る仕掛け
単なる感動だけではない、不思議な余韻が残る仕掛け
予備知識は必要ありませんでした。理解できる仕掛けがあります。
冒頭少ししてから菜穂子と接点ができるきっかけとなる震災のシーンがあります。
ここで自分は違和感が少し残りました。
まず短い、あっさりしている、何よりもまったく悲惨さがない。
モブのシーンで逃げ惑う人を追ってみました、
すると血を流している人がいないんです(たぶん)。
これは明らかになんらかの意図があることが分かる。
そこからしばらくして、カプローニとの会話
「君はピラミッドのある世界と無い世界、どちらを選ぶかね?」といわれ
しばらく思案して「うつくしいものがみたい」と返答する主人公。ここでハッキリわかります
つまり宮崎は美しいものしか描かないつもりなんだなと。
これは二郎の飛行機にたいする思いともリンクする訳です。
人が生きると言うことは綺麗なことではありません、
これは経験則からよくわかることでしょう。
その中で綺麗などといえるものは精々上澄みの数パーセント程度のものです、
その数パーセントしかこの映画では描かないと宣言しているわけですね。
がその中に狂気を潜ませる訳です宮崎という人は。
これは二郎や宮崎だけに当てはまることではないのです。
前半までは二郎のみの話しです、ここまでは二郎に共感する人は少ないでしょう。
というよりもこの美に呪われた会話すらできない人間に共感してはいけないという、
心理まで働くような仕掛けが見え隠れします。
それはシベリアを子供に与えようとするシーンでも分かる。
9.11の時ビルが炎上する姿をTVでみて、「美しい」といった音楽家がニュースになりました。
それ聞いたとき自分は非難することができなかったわけです。
自分もあのとき一瞬「何かに使えないか?」と思ったのが正直な所です。もちろん不謹慎の極みです。
職業人とはそういうものです、とくに芸術家なんてのは美しかない、
科学者にとっての人間倫理とは真理の次にある物なんです、
芸術家にとっては倫理は美の次にあるもの、それが正直な告白です。
宮崎はその告白をしている、戦争の道具である零戦を美術工芸品として上書きを試み、
関東大震災まで美しく上書きするのです。
同様に菜穂子の喀血までも美しく描くのです。
普通あのシーンでは横顔が写るはずです、が表情は見えない、
悲惨さなどの要素を排除しきって、花が散るような描写で描いてる訳です。
それをみて自分は「美しいな」と思う。
再開するシーンもすばらしいです。
今の時代とは違い女性から誘うことはできません、なので作戦が必要なんですね。
そのための間があの声を掛けないで見つめている部分です。
毎日通るであろう道の前に絵の道具をおき、
涙を流しながら「命の恩人に会うために、泉に毎日願掛けをしていた」とウソをつきます。
本当なら初めの段階で声を掛けるはずだからね。
で駄目押しで「彼女は結婚してもう子供は二人いるのよ」と聞いてもいないことをいう、
今風でいうなら「私に乗り換えて」ですが、そうはいわない訳です。
前半は共感できない心理が働く二郎のキャラクターなので、もんもんとしてしまいます。
がそのあとに菜穂子が出てきて飛びつく仕掛けになっているわけです。
彼女は狂気がない人間ですからね。
彼女は二郎の一切を肯定します、終始笑顔なんですね。唯一拒む場面がある、
それが手を離すか離さないかという所、要求はそこだけなんですよ。そこがまたいじらしい。
婚約が性急すぎるという意見もありますが、自分は十分です。
その前の戯れがあるのでそれで十分説明が付いている
二郎は「貴方のもとに届きますように」と紙飛行機を飛ばす、
菜穂子は懸命に受け取ろうとする、このシーンは重要です。
菜穂子には重要な意味があり、彼の飛行機は美の結晶な訳です、
それを受け取ることができるならば私はそこに並べるかもという淡い希望の心理が見て取れます。
普通あのように落ちそうになりながらとろうとしますか?しない。
彼女は病人だしね。受け取ると言う意味は菜穂子にとって非常な価値があるということです。
でキャッチすることができ、その後に期待の予感が残ります、
と同時に不安が残される訳です。紙飛行機はいったっきりで戻ってはこないですからね。
二郎にとって菜穂子は零戦と並ぶことができるのかというとそれは成就します。
ここにカタルシスがある。
二郎は結婚をあげるときにみたこともないような表情をする。そこは菜穂子の勝ちです。
最後に両方とも文字通り紙飛行機のように風にのって、いったっきりとなります、
そこで二郎は感謝の言葉を初めていう。
これは宮崎の言葉でもあるわけですね。それは観客に対するものではないと自分は思います。
そこもまたすばらしかった。傑作です。
「生きねば」
・「結核で可哀そうなヒロイン」が「お涙頂戴」な手法として安易すぎて気分が悪い、という批判が出るのは、ごもっともだと思った。
・この映画の中では、主人公の泣き顔が直接描かれる事は無いし、グロいシーンも無い。宮崎駿監督の画風だと、そういうシリアスなシーンが、コミカルになりすぎるのだ。かといって、その為に全体の画風をがらっと変えたのでは、宮崎駿監督の映画では無くなってしまう。ここは困っただろうなぁ。で、そういう宮崎駿監督が不得意なシーンはカットされ、代わりに間接的に描くと言う手法があらゆる場面で採られている。
・例えば主人公が唯一泣くシーンでは、それはノートに落ちる水滴として描かれている。もし、あの時の泣き顔を宮崎駿監督の画風で直接描いて見せてしまったら、意図せずコミカルになりすぎるということが容易に想像できる。ヒロインが死ぬシーンを直接的に描かなかったのも、そういう理由だと思う。ゼロ戦に乗った兵士が死んでいくシーンを描かなかったのも。だから、この映画を見るにあたっては、宮崎駿監督が「描きたかったけど描けなかったシーン」というのを、観る側で補完して想像する事が出来ないと、意味が解らない話になってしまう。それって映画としてどうなの、っていう批判は、覚悟の上でしょう。
・そういう、映画としてテクニカルな面での批判が出るのも承知の上で、鈴木敏夫プロデューサーがこれを映画化した意味というのは、やっぱりポスターにもある「生きねば」に全て集約されるんだと思う。
・この映画を「つまらない」という人は、「生きねば」などというテーマの映画を観る必要が無かった人という事であり、幸せな人だ。それはそれで、何も問題ないではないですか。そんな人でも、いつか、この映画が必要な時が来るかもしれません。
「今」を生きるボク達へ。
本作の意図は『現代よりも更に苦境にあった1920年代を生き、「夢」という希望のために精一杯生きた人を描くことで、その人達の生き様から何かを得て欲しい、考えて欲しい』ということです。
だから「難病モノ」「ラブストーリー」「ノンフィクション」などを期待して見に行った人は期待外れでがっかりしたと思います。なぜならその各々のファクターやエピソードは、テーマやメッセージを伝えるための一要素に過ぎないからです。
例えば後半で二郎が寝ている菜穂子に「たばこを吸いたい」というシーンがありました。きっとみなさんの中には「愛している人が病気なのに、その人がいる場所でたばこを吸うなんて彼女を蔑ろにしている。一分一秒でも菜穂子が長生きできるようにするのが二郎のすべきことだろう」と思った方もいらっしゃるはずです。怒りを覚えた方もいらっしゃるはずです。
ですが、宮崎監督はこの時代の人達をこうとらえています。
「昔の人は生き方が潔い。必死に生きようともがく感じではなく、与えられた時間を精いっぱい生きている」(パンフより)
このとき、菜穂子の願いは「良き妻として、できるだけ二郎といたい」ということで、
二郎の願いは「飛行機を完成させたい」ということでした。
だから菜穂子は必要もないのに二郎のために毎日化粧をし、二郎も仕事に打ち込んでいます。
けれど二人には時間が残されていませんでした。
もちろん菜穂子に残された時間も少ないですが、実はそれは二郎も同じです。
作中で宮崎駿がカプローニに代弁させるように「人が創造的なことができるのは10年」です。すなわち、彼がクリエイターとして真に創造的であることができるのは10年だという縛りがあります。
そして彼がプロダクトチーフになった時点で入社5年が過ぎていますから、残りは5年を切っています。
つまり言い換えれば、飛行機設計者としての彼の余命も5年なのです。だから菜穂子が倒れたという電報を受けて汽車に飛び乗ったときも、涙でぐしょぐしょになりながらも設計の手を休めることはしません。
そしてまた、作中のセリフに「両立は無理だ」「男は仕事だ」とあるように、「妻のために仕事を置いて付きそう」ことと「飛行機の設計を続ける」ことは両立できません。
しかし、彼らはそこを無理して両立しているのです。その姿が彼らの同居です。
そして、つまりお互いに無理を承知で、なおかつ互いの願い(夢)を妨げてはならないとお互いにわかっているから、二郎は彼女の手を握りながらたばこを吸って仕事を続け、菜穂子はそのことを咎めないんです。
つまり、この彼らの姿こそが宮崎監督の言う「必死に生きようともがく感じではなく、与えられた時間を精いっぱい生きている」1920年代の人の姿なのです。
おそらくこの何気ない姿も現代人に宛てられたメッセージなのでしょう。(まあ、監督インタビューの最後でも思いっきり触れられてることですが)
さて、正直、映画を見終わるまで私は「宮崎監督はあざといな」と思ってました。「『難病』や『悲恋』なんてファクターは、零戦を作るというだけの話だと集客力が弱いから挿入したサイドストーリーなんだろう」と。けれど、映画を見終わって「いや、どうもそういう意図で作られてないな」と思い、パンフレットまで買って読んだら私の邪推は全くの検討はずれでした。いえ確かに、この美保子とのラブストーリーと難病と悲恋には商業的な意図もあったと思います。ですが単なる金儲けではなく、宮崎監督はそこにきちんとテーマを込めています。予告とはだいぶ違った本編に対し期待を裏切られた方は多いと思いますが、決して斜に構えて見ないでください。ラピュタの時のようにテーマをセリフで語るのではなく、一見バラバラに見えるエピソードやシチュエーションを通して語っているからわかりにくい作品になっているだけです。
本作のメッセージは「苦境にある現代の人達に夢や希望に向かって懸命に生きて欲しい」ということ、ただそれだけです。
蛇足ですが、だからこそ娯楽性のあるフィクションを描くのではなく、実際に過去の苦境を生きた人をモチーフにとったんです。
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