風立ちぬのレビュー・感想・評価
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宮崎監督の信念と良心を垣間見ることが出来た。
映画の内容について、ほとんど予備知識のないままに見に行った
が、素晴らしい映画であると感じた。
宮崎監督の信念と、今の日本に伝えたいメッセージはしっかりと
受け止めることは出来たのではないかと思う。日本の一番暗く重
い時代を、腐りもせず、自傷にも批判にも走らず、自らの仕事を
全うする青年の姿に、監督が本作に込めた、今の日本へのメッセ
ージを感じない訳にはいかない。
その時代を断罪することができるのは、同時代に生きた者にのみ
許された特権である。監督もそのあたりのことは重々承知のはず
。
本作の中で非難らしい非難を受けたのはナチス党であり、作中人
物を通して、ならず者の集まり、とまで言わせている。それ以外
は日本の軍部、会社組織、上流階級、来日中の枢軸国人、そのい
ずれに対しても監督の描写はあくまで中立を貫いている。その辺
りに監督の配慮、そして良心を感じた。
堀越氏の生い立ちにしろ、零戦の設計者としての知識ぐらいしか
もっておらず、堀辰雄の「風立ちぬ」もだいぶ前に読んで以来、
ほぼ内容を忘れかけていた。
なので、本作が史実に合致しているか、については私自身それほ
ど重要視していない。むしろ、日本が一生懸命に輝こうと悪戦苦
闘していた時代の美しさを、監督が愛好する、紅の豚の世界にも
似た飛行機乗りのロマンに絡めた着眼に拍手を送りたい。
どうすれば、今の日本はかつてのように輝けるのか、どうすれば
少子化を克服できるのか。そして、人は何ゆえに生き抜くのか。
ラスト近くで菜穂子が語りかける言葉に、全てが集約されている。
2013/8/24 イオン・シネマつきみ野
本作への批判、堀辰雄との類似性に関して
--本作への批判、堀辰雄との類似性に関して--
この映画を一緒に観た友人は、非常に怒っていた。彼女いわく
「軟弱な世界観。当時あったはずの悲惨さを全く描いていない。まるで夢物語だ」と。
私はその言葉を聞きながら、ある種の既視感を覚えていた。
この映画への批判は、堀辰雄が文学史の中で受けてきた批判と同質だったからである。
「素寒貧」「堀の小説にでてくるような生活はどこにもない」
三島由紀夫、大岡昇平らが堀を評しての言葉である。
本作への批判を、堀文学と比較しながら考えていきたい。
...
本作は、堀文学へのオマージュが散りばめられている。
二郎が軽井沢のホテルで菜穂子の部屋を仰ぎ見るシーンは『聖家族』からの、菜穂子がサナトリウムを抜け出して二郎のもとへ赴くエピソードや喫煙シーンなどは『菜穂子』からの引用であろう。(余談であるが『甘栗』における喫煙シーンは文学史上屈指の美しさであり、堀辰雄は煙草を大変上手に扱う作家でもあった。)
エピソードのみならず、本作と堀辰雄作品は、その表現方法も酷似している。
堀辰雄はアクテュアリティー…現実性を徹底して排除した作家であった。
「私は一度も私の経験したとほりに小説を書いたことはない。」と、自ら語っているように、
結核を患っていた己の療養生活をそのまま描くのではなく、美しい虚構に再構築して小説に仕立てた。
私小説として現実の悲惨さを描くのではなく、ラディゲのような純粋な虚構を書く事、「現実よりもつと現実なもの」を描く事が堀辰雄の目指すところだったのである。
それは、この映画における、戦争や死に触れながらも悲惨さを排除し、美しさ純粋さを際立たせた演出法でもある。
このような表現方法は熱狂的なファンも獲得するが、前述のような批判を生む。
堀辰雄に対して
大岡昇平は
「きれいなことだけ書く」
「堀の小説にでてくるような生活はどこにもない」
「変にセンチメンタルなことを書いてるのは、人の憧れをそそろうという策略」と断じ、
三島由紀夫は
「文体を犠牲にしてアクテュアリティーを追究するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体を追究するかのどちらかに行くほかはない」という、表現者にとっては切実な問題を充分理解しつつも、
掘文学を「青年子女にとって詩の代用をなすもの」(大人向けではない)と評するのである。
小説の発表当時だけではなく、むしろ戦後あけすけな堀批判がなされたという事は、大戦を経た社会では、堀辰雄的表現の限界を感じていたのかもしれぬ。それとは別に、あまりにも自己完結された堀文学への羨望にも似た揶揄だったのかもしれぬ。
大岡らの評と、我が友人の本作への否定的な論は、非常によく似ている。
現実をあえて描かない事を、甘えとみるか、作品世界の完成度を上げるための手法と認めるかの、瀬戸際の論なのである。
本作への否定は、宮崎駿やジブリという特異性に対してのものと勘違いされがちだが、堀辰雄的な表現法への批判であり、それはもう何十年も前から行われてきたことなのである。なんら目新しいものではない。
当然、宮崎駿自身も「美しいものを描く」表現法が賛否を呼ぶ事は承知の上だったのであろう。
アクテュアリティーが無いという批判は、宮崎が目指したもの…堀辰雄的世界により近づいているという賞賛でもあるのだ。
堀辰雄を最大のエクスキューズにし、徹底的なアクテュアリティーの放棄をやってのけたとも言えるのである。
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--堀辰雄との相違性に関して--
では、本作と堀文学が全く一緒かというと、そういう訳ではない。それぞれの作家性が当然のごとくある。
その相違を考えていきたい。
...
宮崎駿は堀越二郎という一人の天才を描いたが、
堀辰雄も一人の天才をモデルに用いた。堀の師でもあった芥川龍之介である。芥川をモデルとした人物が『聖家族』『菜穂子』などには出てくる。
天才をモデルにし、作者本人との類似性を提示したという点では一緒なのだが、そのスタート地点が決定的に違う。
映画では、二郎の夢を追う道程を描いた後に、愛する人の死と敗戦という深い喪失が提示される。
堀の小説は逆である。
最初に芥川の死という喪失を提示するのである。
映画のラストから、堀の小説はスタートするのである。
芥川の自死。芥川を理想としていた堀にとっては、どれだけの絶望であったであろうか。その上で、
「(芥川の死は)僕を根こそぎにしました。で、その苛烈なるものをはつきりさせ、それに新しい価値を与へること、それが僕にとつて最も重大な事となります」とし、物語を紡ぎ始めるのである。
喪失そのものと対峙し新しい価値を与えることが小説の第一義なのだ。
であるがこその「いざ生きめやも」なのである。
宮崎駿は美しき夢を描き、堀辰雄は夢の果てた後の無惨さを美しく転化して描いたのである。
...
ここから先は個人的な所感である。
映画を見た際に、若干ひっかかりを覚えたシーンがあった。
軍部との会議のシーンと、特高警察の登場シーンである。
(これらのシーンに対して史実と違うという批判は無効だ。なぜなら本作がアクチュアリーの排除を前提とした作品だからである。)
他のシーンが圧倒的な美しさに溢れていたのに対し、あまりにも戯画化され過ぎていて、ありきたりな印象しか残さない手垢の付いたシーンであった。宮崎駿の観客をリードしようとするその方向性が、容易に見透かされるのである。
これらのシーンは、個人と全体の対立という非常に重いテーマをはらんでいるのだが、その表現法はあまりに安易だ。
観終わった後しばらく気になっていたのだが、宮崎駿本人がこう述べていた。
「(会議のシーンなどは描きたくないが)やむを得ない時はおもいきってマンガにして」カリカチュア化して描くと。
戯画化され過ぎているのも、宮崎の計算のうちだった訳である。
映画全体のバランスを考えれば、それが正解なのかもしれない。
そう判りつつ、堀辰雄だったらこれらの場面をどう描くのかを、考えてしまう。
堀辰雄だったら
作品全体のバランスが悪くなったとしても、判りやすいカリカチュア化ではない方法をとったのではないか。
もし描ききることが出来ないのであれば、その場面をカットしストーリーそのものを変えてしまったのではないか。
その堀辰雄の潔癖性こそが、純化された作品群を生み出す源であった。
三島由紀夫が「素寒貧」と酷しながらも、「小説を大切に書くこと」を堀から学んだと表する所以は、そこにある。
そして堀から表現に対する実直さをとったら何も残らないのである。
宮崎駿は、堀辰雄よりも遥かに老練な表現者なのかもしれぬ。その手管の豊富さは批判されるべきものではないのであるが、
堀辰雄への共感と同等のものは持ち得ない。
カリカチュアを良しとする老練さは、純化された作品には向かないからである。
宮崎駿がその老練さを捨てた時、真に純化された作品を作った時、
本当の傑作が生まれるのではないか。
爽やかな風を体全体に浴びたような気分です^^
宮崎駿監督は本当に自分の好きなように、本作を作られたんだなあと感じました。豚は一切出てきませんし(笑)、客を喜ばせようというシーンも全く出てきません。
ただ二郎が、ゼロ戦を作り上げるまでの過程が淡々と描かれているだけです。しかし僕はそんな世界をもっと見ていたかった、爽やかな風をもっと浴びていたかったと思ってしまいました。
本作で描かれる二郎は、監督ご自身の姿だと思います。二郎も監督も非凡な才能を持っておられます。そのために、二人に求められるものというものは大きくならざるを得ない。おそらくそれは、周りがそこまで求めなかったとしても、自分の意識がそれを求めてしまうようなものだと思います。
そんな二人(二郎と監督)には普通の生活を送ることはできません。二郎は菜穂子と一緒に療養所に行きたくても行けません。菜穂子は一緒に療養所に行きたいとはいいません。それはなぜか。もし一緒に行ったとしても、そこにいる二郎は菜穂子が愛した本来の二郎ではなくなるからです。やはり二郎はゼロ戦をつくるしかないんです。それが二郎だからです。
二郎にも葛藤はあるはずです。妻のためにはこれではだめなんだ。しかし自分にはこうすることしかできない。菜穂子の体にとって最善ではないかもしれない。しかし二郎と菜穂子の関係においては、菜穂子に側にいてもらうあの形が最善となってしまうのでしょう。
二郎ほどの人間であっても、やはり一人ではゼロ戦はつくれない。菜穂子が自分を支えてくれたからいい仕事ができた。本作は、監督がご自身の奥さんに向けてつくられた映画なのかもしれませんね^^
劇中に出てくるもの全てが美しいです。人も自然も人口造形物もなにもかもが美しい。潔い。真剣さを隠すレトリックも全くありません。醜さも派手さも全く用意されていません。
僕はスポーツやマラソンを見ているような感じで、本作を見ていた気がします。監督の人生を感じながら、僕はそれに自分の人生を重ね合わせたり、振り返ったりしながら…
妻への感謝の気持ちと、「いろいろあったけど、俺頑張ってきたなあ」そんな気持ちから、監督は涙されたのかなあと思いました。
実際の人生は、映画やドラマのようなシーンはほんの一部分で、それ以外は本当に淡々としていますよね。でも、その淡々とした日常がいいんだよなあ、なんて思ってしまうのですが、日頃はまた忘れているんだろうなあ^^
やはり頑張って何かを成し遂げた喜びというものは、何ものにも代えがたいものがありますよね(*^-^)
儚く切なく色々な事を想う映画…
こんなに悲しい話とは思っていませんでした…
世界で一番早く、美しい飛行機を作りたい、その夢を愚直な思いで成し遂げながらも、それは人を殺める兵器となり、日本人を特攻という自爆行為に導く棺桶になり…思いを裏切る結果の切なさが突き刺さりました。
もう一方で、次郎さんへの思いを遂げて、彼の夢を見届けて最後は身を静かに引く菜穂子さんの純真に心を打たれました。山を自ら降りてくるほど次郎さんと寄り添いたかったのに、彼の邪魔にならないように、成功を見届けて去る…泣きました。
夢を追いそれを叶えることが幸せになるとは限らない、物作りと利害得失の絡んだ仕事の矛盾、本当に人を愛する事の切なさ…沁み入りました。
驚いたのは、これだけ歴史背景がはっきりしている映画なのにそれを感じさせず、戦争という一番インパクトの大きい時代を扱いながらもそれを微塵も感じさせない仕上げ方が、二つの儚さをより強調している様にも思えました。
映像の秀逸さもあいも変わらずで、菜穂子さんの嫁入りシーンはあまりの美しさと厳かさに涙しましたし、震災シーンには震え、ユンカー社の爆撃機のお目見えのシーンには飛行機の美しさにため息しました。
久々に映画館で泣きました…
期待してはいけない
監督が飛行機マニア?というのを知っている者としては期待していました。
その期待も、公開前のCMを見ているうちに不安へと変わってしまいます。
何度となく放送されたCMを見た限りでは、菜穂子とのラブストーリーなのか?と思わされました。
それならそれで構わないのです。そういうのも嫌いではないので。
いざ劇場で最後まで見た感想は中途半端。
やはり飛行機に対しての想いをこめた描写が多いのです。
じゃああのCMはなんだったんだと思うのですが、菜穂子との絡みは結構短い。
監督は菜穂子との絡みはそれほど描くつもりはなかったのではないでしょうか。
ですが飛行機に重点置き過ぎると商業的な面で危うい。
そこであのCMではないかと。菜穂子との恋を前面に押し出したCMです。
切ない恋模様を描いた作品、と知れば興味をもつ人も増えるでしょう。
正直あの手の話には弱いので涙が出そうにはなりましたが。
声の出演で話題になった庵野さんですが、やはり無理があったと思います。
一番初めのセリフを聞いた瞬間、心の中でずっこけました。すみません。
監督の思惑もあるんでしょうけど、受け入れるのは難しかったです。
最後に、ジブリ映画はほとんど好きです。
「風立ちぬ」も嫌いとは言いませんが好きになるには時間がかかりそうです。
「主人公が、どこか客観的に戦争を感じている」ことが、逆にリアルで恐ろしかった
「主人公が、どこか客観的に戦争を感じている」ことが、逆にリアルで恐ろしかった。
他のレビューでも語られている通り、主人公は富裕層のエリートで、かつ飛行機バカで、元々どこか世間とは一線置いたような場所にいる人間だ。
歴史的な出来事である震災も、恐慌も、彼はどこか客観的に見ている節がある。
だが、それを差し引いても、本格的な開戦の前で、更に戦争で連勝を重ねていた当時の日本で、"戦争への危機感"をリアルに感じていた人間なんて、一体どれほどいたのだろうか。
軍からの依頼で兵器を開発していた主人公でさえ、頭の中は"飛行機"と"愛する妻"でいっぱいだった。(新妻が不治の病であったことを考慮すれば当然かもしれないが)
その周囲の人間たちも、多少差はあれど、ごくごく普通に生活を送っていた。
恐ろしい世の中だが、その中で必死に普通の生活を守っているとか、そいういった特別なものが根底にあるわけでもなく、淡々とした普通の生活だ。
思い返すと、震災も、恐慌も、当事者たちはものすごい形相で混乱しているが、それを真横で眺める人々は主人公に限らず、ぽかんとした表情で、どこか客観的見ているように描写されている人物も少なくなかったように思う。
この映画を通して、当時の戦争とは、決して特別な、異常な状況ではなく、普段の生活の中にあっさりと溶け込んでいたのではないかと感じた。
戦争の身近さと、そして、その狂気がすぐそばまで迫ってきている状況であったとしても、自分自身に直接被害が及ばない限り気づけない人間の鈍感さに恐ろしさを感じたので、印象として「怖い」を選択させてもらう。
追記:
戦争の悲惨さを描きたいなら、激戦区に住んでいた方々や、安全な場所に逃げられなかった弱者の方々を描けばいい。
しかし、それをせず、あえて他人事のように戦争を傍観する立場であった主人公を出すのは、当時実在した「そういう人々」への一種の痛烈な批判のようにも感じられる。
ユーミンの歌にもある「今はわからないほかの人にはわからない」
悲惨な戦争の体験をされた人々の見たものも感じたものも、その当事者でなければ「わからない」
これも、現実の戦争の一面なのではないだろうか。
冒険し過ぎた?
見る側によって評価は分かれると思うが、宮崎駿作品とは思えないほど、退屈な映画であった。最初から最後まで、単調に流れている映像を鑑賞するには忍耐がいる作品。実在のゼロ戦技師、堀越二郎の半生も堀辰夫の純文学も単独では素晴らしいのだが、ミックスしたことにより、違和感を感じ、今も消化不良気味である。国民の大半が生きていくのがやっとだったこの時代、裕福な家庭に育った二郎と菜穂子の浮世離れした出会いや夫婦生活は、作品全体の薄さを増している。ただエンドロールの映像とユーミンの歌には救われる。次回作を期待したい。
懐かしい
「美」を専一に追いかける事にはリスクが伴う。
倫理や社会性、良識や法律が、「美」の探求者に時として強烈な掣肘となる。
まして、それが戦時下ともなれば。
宮崎駿監督の「風立ちぬ」に描かれているのは、戦時下に美を追い求める男の物語である。彼には一切の躊躇いが無い。 草叢を無視して空を行く紙飛行機をキャッチする際にも、肺病の恋人にキスをする時も、禁じられている区域に歩み入り小型飛行機に近づく時も、ゾルゲを思わせる外人スパイと思しき人物との無防備な接触にも、
そして、殺人兵器である高性能戦闘機のデザイン(設計)においても。
二郎は戦時下という制約の中、幼い頃からの夢、美しい飛行機をひたすらに追い求める。
冒頭夢の中で、手製の飛行機で少年時代の彼が故郷の空を飛ぶシーンが描かれる。
堀越二郎自身の著書にも、このような夢を頻繁に見た、と書かれていたが、これは宮崎自身の、少年の頃の、夢でもあるのに違いない。
映画の構造は夢に始まり夢に終わる。
ラストの廃墟の中で二郎が夢見るのは、ただひたすらに追い続けた二つの美しいもの。
冥界へと向かう空の彼方の夥しい機影と、絵を描く恋人。
つまりは、この映画は全てが少年が、そして宮崎が見た一幅の夢に過ぎなかったということなのだろう。夢の中では善悪も無ければ、真実と誤謬の区別も曖昧だ。そこでは我々の行動に掣肘も無く躊躇も無い。ただ単純に欲しいものを追い求める。
荒井由実の「飛行機雲」の歌詞との奇妙なレゾナンス(共鳴)は、歌詞の中の少年が映画の中の主人公そのものと思い至れば得心が行く。帝大を首席で卒業しようが、大不況の最中、三菱重工のエリート技術者になろうが、彼は少年のまま日々を過ごす。
巨匠と呼ばれる白髪白髭の原作者も、自らをそのように定義しているのではないか?
切実に欲しいもの、それは許されざるものである。許されざるものだからこそ、切実さが募る。美しい流線型の殺人兵器。死病に冒され、切ない一時の美しさを永遠に留める美少女。
それを望み得るのは、無垢で恐れを知らない少年。それを描き得るのは、一瞬の輝きを、時を止めず暗闇の中に溶かして行く映画。
宮崎監督自身、戦闘機への偏愛と戦争への嫌悪の相克に悩むという。この映画はその矛盾を、矛盾のまま映像化した作品である。注意深く、倫理や歴史の澱(陰謀・差別や悪意)といった夾雑物が排除されている。だから美しい。
この映画を見る正しい姿勢は、その美しい夢を共にすることである。
無防備に、愛惜の念を作者と共にして。
夢と呪いとそれを紡ぐ「作り手」
何を描きたかったかと思うか、と聞かれたらやはり僕は「作り手の夢と呪い」ではないかと答える。
イタリアの飛行機設計者カプローニは夢の中で「飛行機は美しくも呪われた夢だ」と言った。この言葉は飛行機に限らず全ての作り手にあてた言葉だ。
描かれていたのはファンタジーではなく、物の作り手のリアルな姿だった。夜遅くに病の床に就く菜穂子の横で手を握りながらも仕事を優先して図面を描き、挙げ句の果てには彼女の病を心配しつつもその病人の横で煙草を吸う。彼こそがエゴを突き通すリアルな作り手の姿である。
彼女を心配してたばこをやめるようなファンタジーを描かなかったのが、今回の宮崎駿という作り手だ。タバコを吸う弱さ、情けなさにあふれるシーンをとうとう宮崎駿は描いた。かつてのファンタジーは無い。
堀越二郎は作品中誰よりも戦争に近い場所にいたにもかかわらず、誰よりも遠い場所で誰よりも戦争を感じていた。
作り手は常に客観的に、時には冷酷でなければならない。
この矛盾に似たものを作り手としての宮崎駿も持つ。宮崎駿は戦争が大嫌いだが戦闘機が大好きだ。
だからこそ宮崎駿はこの作品を、堀越二郎を、客観的に描いている。それが先のシーンのタバコであり、宣伝で使われる「かつて、日本で戦争があった。」という他人事のような一文だろう。
今作はエンターテイメントとしての完成度を最優先にせず、消費者の手にあらゆる要素を依存させる形でエゴイスティックに伝える事を宮崎駿は初めて選んだ。だから悪評も多い。
堀越二郎の声をエヴァの監督庵野秀明が担当している。共通するのは「夢を作る、形にする仕事」という事であり、同時に「呪われた物を作る」仕事に就いているという事である。片方は飛行機という夢を形にする事で殺戮の道具を生み出したし、もう片方は人の夢となる物語を描いた事で庵野が後に否定する「信者」という怪物を作りだした。
こういった背景含めて作品を振り返ると、やはり庵野秀明の起用に関して僕は大成功だと自信を持って言える。庵野は最初から演技する事を放棄して作り手というタグを二郎と共有することで、一人の人間として堀越二郎をスクリーン上に生かしていた。フィクションとしての要素が加えられているとは言え、実在の人物をモデルにした今作ではそれこそが大正解だったと言える。
庵野起用による成功を確信したのは発話の生々しさを感じた時だ。虚構の中の人間が、現実との狭間を越えて僕の前に一人の人間としてすっくと表れるのを本当に人生で初めて体験した。
特にラストシーンの二郎から菜穂子に向けた「ありがとう…」という最後の台詞の発話の素晴らしさは絶対に聞くべきだ。
堀越二郎は庵野秀明であり、そして堀越二郎は宮崎駿だ。
では作り手の宮崎駿にかかる呪いはなにか。
それは配役を含めてこの作品を取り巻く現在の状況だ。やはり作り手が作品を他者の中に旅立たせたら逆風は必ず吹く。
作り手の紡ぐ夢は呪いと表裏一体。
誰かを傷つけたり、不快にさせる可能性を必ず孕んでいる。
その上でどうするかが重要だ。
恐れて夢を紡ぐのをやめるか、覚悟して夢を紡ぐか。
宮崎駿の答えは「風立ちぬ いざ生きめやも」と、そしてラストシーンで菜穂子がボロボロになった二郎にかける「あなた…生きて…生きて!」という言葉だろう。
少なくとも実際の堀越二郎は作り手として生き続け、その後戦後初の国産旅客機を作った。
全員が10点出す映画より半分が20点、もう半分が0点を出す映画の方が絶対傑作であり、風立ちぬはまさしくこれだ。
恐らく物を他者の中に解き放ち、多数の他者が織りなす世間の中で自身が評価されたりけなされたことがある人の多くが好評価をつけている。
庵野秀明は「72歳を過ぎてよくこんな作品が作れたな、と感動した。宮崎駿が地に足のついた少し大人に近づいた映画を作った。」と評価した。
今作はリーマンショック後にファンタジーを書きにくいと悩み、得意技のファンタジーを捨てて作った宮崎駿の遺言だ(鈴木プロデューサーの発言より)。
この遺言は今まで子供向けに書いてきた宮崎駿作品の中でどれよりも難解であるが、プロデューサー室の女性曰く「子供はわからなくてもわからないものに出会うことが必要で、そのうちにわかるようになるんだ」との事だ。
僕はこの作品を見たいつか大人になったときの子供の感想とあとは海外の感想が気になっている。
とりあえず72歳のおじいちゃんからこうして言われると結構納得させられたり考えさせられて、「世界の」という言葉が頭に付くおじいちゃんはかなり凄いな、と今更ながら感心&感動させられた作品だった。
最後に。
九試単戦のテスト飛行の成功という開発者としての堀越二郎の人生最高の瞬間の筈なのだが彼はそんな事よりただただ妻を感じている、というシーンとそれに続くラストシーン。
これこそが原点で頂点だ。
じわじわと心にしみる
ふとした瞬間に、思い出して涙がこぼれ、たまらなくなります。
観ているとき、観終わったとき、数日経ったとき。いつまでも消えることなく、むしろ時間が経つほどに心にしみて、泣けてしまう。こんなにも余韻の残る作品は、初めてかもしれません。
物語終盤、黒川夫人の「美しいところだけ、すきな人に見てもらったのね」という言葉を聞いたとき、どうしようもなく涙が止まりませんでした。
結果として二郎は菜穂子よりも夢をとったけれど、菜穂子のこと、本当に心から愛していたと思います。彼女の先が短いこと、今が限られた幸せであることを理解していて、それでもお互いに辛い面は見せずに生きていて。だからこそ、二人の気持ちを考えるととても切ないです。
黒川家を出ていく前日、眠ってしまった二郎にふとんをかけ、メガネを外し、二郎の寝顔を見つめている菜穂子のシーン。二度目に観た時、菜穂子の気持ちを想像してたまらなくなりました。
菜穂子もゼロ戦も失ったその後の二郎の人生は、絶望的だったのでしょう。美しいところだけが記憶にある、というのは、あるいは辛いことなのかもしれません。
それでもラスト、夢のなかで再会して、菜穂子が二郎に「生きて」と言ったこと、それに対して、顔をくしゃっとして「ありがとう」と二郎が言ったこと。何だかとても、ぐっときました。
私は今まで二度観たのですが、一度目よりも二度目の方が、こみあげてくるものがありました。きっと、回数を重ねるごとに深みの増す作品なのだと思います。
他にも書きたいことはたくさんありますが、きりがないのでこのあたりでお終いにします。最後に、賛否両論ある庵野さんの声、私はとてもよかったと思います。
美しかった。
本当に美しく、素晴らしい作品でした。
簡単にではありますが、私が感じたことや魅力を綴ります。
まず、子供が飽いてしまう理由ですが、宮崎駿監督の代表作の一つである『もののけ姫』や『風の谷のナウシカ』、『千と千尋の神隠し』などのような盛り上がるシーンは皆無だからだと思います。
この映画は堀越二郎という人物の半生を淡々と物語にしています。そこを間違えないでいただきたい。
故に、「面白い」と言える作品ではないのかもしれない。「面白い」というよりも「素晴らしい」、そんな一言が実によく合う。
観た後に何かが心に残る、一日や二日経ってからじわじわ良さがにじみ出てくるようなそんな作品。「あのシーンのあの人は、こんな想いだったのだろうか。」、そんなことを考えてしまう映画。
美しい飛行機を追い求めた堀越二郎。彼を死ぬまで愛し、想い続けた里見菜穂子。
堀越二郎の目的は美しい飛行機を作ることであり、戦闘機を作ることではなかった。
美しい飛行機、美しい想い、美しい妻。美しいものを追い求める堀越二郎に熱く想いを寄せた里見菜穂子。山での治療よりも、命を削ってまで堀越二郎との時間を選んだ彼女の美しい想い。美しい時間と追い風を堀越二郎にしっかりと送り、黒川家と堀越二郎に心配をかけることなく消えた彼女はどんな想いだったのでしょうか。きっとそれは美しくも儚いのでしょう。
自分の飛行機が美しく空を舞った時、彼はきっと感動したでしょうが、手を挙げて喜びはしなかった。周りが歓声を上げ、手を大きく挙げて喜んでいたその時、堀越二郎は物悲しそうな表情をしていた。最愛の人である里見菜穂子の死を悟り、自分の10年に終止符が打たれたことを実感し、全て手に入れたと同時に全て失ってしまったようにも思える。
最後の、カプローニと堀越二郎の夢のシーン。
「あれが君のゼロか。」と問うカプローニと、「でも、一機も帰って来ませんでした。」と話す堀越二郎。本当に切なかった。
全てを失った堀越二郎、そしてそんな堀越二郎への「生きて。」という里見菜穂子からの一言。とても重く、美しい一言であると感じました。
作中で堀越二郎はあまり感情を表に出しません。賛否両論ありますが、庵野さんの声は堀越二郎の性格によく合っていたと私は思います。優しく温厚で、しかし熱い想いを胸に抱き、夢を追い続ける堀越二郎。そんな彼が、里見菜穂子から「生きて。」と言われた時、「…はい。」と目をぎゅっと閉じ、感情を露わにして答えます。
「君は生きなければならない。」
カプローニからの言葉。全力で生きてきた10年。堀越二郎の想いはきっと大きく、重いものです。
「少年よ!まだ風は吹いているか?」
作中で何度もカプローニが言うこのセリフもまた、堀越二郎にとっての風になっていたことでしょう。
「風立ちぬ いざ生きめやも(風が立った。生きることを試みなければならない。)」
生きることを試みる。それがどんなに困難なことか。
しかし風が立っている。それは愛する妻、里見菜穂子から送られた風であり、夢の師匠であるカプローニから送られた風であり、厳しくも優しい上司、黒川からの風でもある。
たくさんの人からの風を受け取って、自分はまた前に進まなければならない。どんなにつらく困難な人生でも、生きなければならない。
この映画のキャッチフレーズである、「生きねば。」
それを酷く痛感する作品でした。
震災や戦争の様子が詳しく説明されるシーンはない。堀越二郎はきっとものすごく苦労し、葛藤しただろうが、頭を抱えて苦悩する堀越二郎は見受けられない。故に登場人物の心情を思い描くことが難しいものとなったのだろうが、宮崎駿もまた、細部に渡って美しさを追い求め、一つの作品にした。彼には本当に頭が上がりません。
いろいろなものを贅沢に詰め込んだせいで、わかりづらいシーンがたまにありました。例えばこの映画がもっと長いものだったら、きっと今以上に深く思うことがあったかもしれません。
本当に素晴らしい作品でした。
大切な人とこの作品を観ることができて、私は本当に幸せです。
まだ観ていないという方は、是非大切な人とこの作品を観てください。
きっと今まで以上に、その人との時間を大切にしたくなる。誰かとの一日を大事にしたくなる。自分の一秒が美しくなる。
綴りたい想いは溢れているのに、文章にするのは難しいですね。笑
しかしながら、例えば私のこの文章が、これを読んだあなたの風になればと思うのです。
あなたには、風が吹いていますか?
アニメだからこそリアルさを感じられる逆説的作品
ジブリ作品としては非常に評価が分かれる作品だと思います。
火垂るの墓と同様、戦時中のリアルで過酷な現実を背景に描いた作品ですが、火垂るの墓のような直接的な戦争表現は一切排除しています。
(関東大震災の描写に関しては東日本大震災の被災者の方への配慮もあったとは思いますが・・)
それでも、昭和初期の活気にあふれながらも常に戦争の影を不穏な空気として感じさせる緊迫感をアニメの空気の中に漂わせる表現はさすがの一言です。
主人公と恋人との愛情表現のシーンも非常に日常的でものすごくリアルですがその分生々しい感情が伝わって来ます。
総評すると、CG等使えば夢のシーンも含めてすべて実写映画か長編ドラマにそっくり代えることができる作品(アニメの実写化などもう辟易とした感がありますが)ですが、あくまでこの作品はジブリのアニメ作品としてのみ本当にリアルな世界観と生きている人間の生の感情を感じられる作りになっており、私は劇場で見られたことを非常に喜ばしく思いますが、DVD等でもう一度見ようとは思わない一期一会的な稀有な作品でもありました。
2回観たあとの感想
一回目は☆4の評価でした。しかし今の☆5の評価と比べれば一回目は☆2が正解だったかもしれません。というのも、一回めは主人公の声優の棒読みに耐えきれずに、内容にあまり集中できなかったからです。しかし一回目の最後の最後でこの声優のあまにも棒読みな素のままの声が、主人公そのものであるような感覚が味わえたので、これは案外2回見たらいけるのではないかと思って見たところ、大当たりでした。
私はこの映画の堀越二郎という人間が、多くの人が言うような冷たい人間であるという印象は全く受けませんでした。むしろ日本を変えた本の一握りの天才たちが持っている桁外れの情熱や熱中力が周りの世界を見えなくしているだけで、ナホコに対する愛情を見れば、彼はむしろ普通の人間よりずっと温かい心を持っていると言えるのではないでしょうか。
たしかにナホコは病院にいれば少し寿命を伸ばすことができたかもしれません。しかし愛する人といる時間を削って孤独な時間を少し長く生きて何になるのでしょうか。残された時間がわずかだと知っているからこそ、二人で今を大事に生きることが何より大事なのです。
それなら仕事をやめろと言うかもしれませんが、飛行機の設計も彼の命そのものであり、設計士の10年という短い寿命を全力で生きなければなりません。
どちらかを取れと言われても、それは不可能でしょう。彼の命はナホコと飛行機設計の両方に捧げられており、一人の人間の命を分割できないように、
どちらかを片方だけというのは出来ないのです。
もちろん彼の飛行機に掛けられているのは彼の夢だけでなく、国や国民も含まれています。
自分の奥さんと見に行く物じゃないです。一人で泣こう。
映画の殆どの時間を割いて、イタリアやドイツから学ぶ飛行機造りの創意工夫を描き、そうやって作り上げた「一機目の傑作機」が完成した所で観客はピークを感じる。場面は暗転し、戦後なにもかも失い、すべてをそぎ落とされた主人公が、最初の夢の草原に戻る。そこに現れるのは、自身の代表作になった世界の何処にもない、シンプル極まりない全ての無駄を「そぎ落とした」飛行機。この映画は、既存の物に比べれば説明も脚色もボリュームがない。でも、無駄をそぎ落とす、ないし失ったからこそ、持たざる者だからこそ見える美しさがある…。
上記がたぶん最初のプロットなんだと思う。でもここに愛を失ってしまう風立ちぬの物語を重ねるのは反側。消化出来るものじゃないし、簡単に消化して良い物でもないでしょう。考えさせられるんだが、理屈じゃ結論が出ない…。宮崎駿自身が、良いカミさんをもらったんだろうなぁ…と感じるのは、「耳をすませば」の牢屋でヴァイオリンを作る、ヤコブ・シュタイナー以来2度目♪(シュタイナーこそ世界一で、そのシュタイナーはクレモナ留学に失敗してたりする)シュタイナーのバイオリンも全てが壊れてしまって、殆どが残ってないな…その辺もゼロ戦に似てるのかも。
ジブリっぽくはないけど良いね!
関東大震災や恐慌時代の取り付け騒ぎの様子などちょくちょく歴史的背景が観られたのは感心。現役大学生の自分としては、二郎が「本郷の大学に行く」とさらっと言うところに「かっこいいなぁ」と思ってしまった(笑)
恋人との関係性がとてもリアルで、夢見がちでなく、心が浄化された。戦争美化がどうこうと言われていたのを何かで見た記憶があるが、そんなことは全く感じない。二郎は飛行機を造ることに没頭し、戦争がどうだということは作中言っていない。そんな職人気質な二郎に惚れ惚れ。
作中の一言一言が重い。どれも聞き漏らしてはいけないと感じる作品に久しぶりに出会った気がした。
ジブリっぽくはないかもしれないが、すごく良い作品で在る事に疑いは無い。
Le vent se lève, il faut tente
劇場での4分間の予告編と、バックで流れていたユーミンのひこうき雲を聴いて、とても観たいと思い映画館へ観に行きました。
正直な感想は
【共感できず、楽しめなかった。】
です。
物語は実在する航空設計士をモデルとし、関東大震災から第二次世界大戦後迄をメインにその半生を、実在する作家の恋物語で味付けして描いたもので、ジブリ映画では珍しく大人の恋愛も絡んできます。
大震災と世界大戦があった時代背景。
ゼロ戦の設計に携わった主人公、二郎の夢と希望と苦悩と挫折。
重い結核の治療を中断してまで二郎のそばに寄り添い、彼を支え成功へ導いた恋人の菜穂子。
…このあたりが見どころでしょうか。
関東大震災や第二次世界大戦といった史実、航空設計士という特殊な職業とモデルとなった人物、元となる物語と現代では完治可能な結核という病。
これらについて、知識がある、もしくは事前に予習している人はこの映画の素晴らしさを十分に堪能できるのかもしれません。
しかし残念ながら、史実については授業や教科書レベルでの知識しかなく、モデルとなった人物やその職業について、また元になった物語の知識は皆無、結核についても当時は不治の病だったという事くらいしかわからないあたしには共感できる部分が少なく、あまり楽しめなかったです。
更に劇中で度々出てくるドイツ語のセリフなどには一切訳が入らず、登場人物の背景も主人公以外は全く説明がないので、状況を見て自分で想像し、解釈するしかなかったのも物語に入り込めなかった理由のひとつです。
これまでのような子供から大人まで楽しめるジブリ映画を期待する人や、子ども(12歳未満くらいかなぁ?)にはオススメ出来ない作品かと思います。
【以下ネタバレ注意】
落ち着いて映画の内容を反芻し、あれこれ考えた結果からのこじつけのような感想。
主人公が作りたかったのは空飛ぶ芸術品であり、大量殺戮兵器ではないという事。
しかし、時代と運命には抗えず戦闘機を作らなければならなかった苦悩や、貧しい時代と遅れた技術で思うようなモノが作れず失敗を繰り返し挫折、
加えて愛しい人が不治の病に冒されている事が発覚、と二郎の人生は散々たるものです。
菜穂子の結核が最早手遅れで治らない事は、恐らく二郎も菜穂子本人もわかっていたのでしょう。
ふたりに残されたわずかな時間を無駄にしない為、菜穂子は治療を中断し二郎の元へ嫁ぎます。
いちばん大変な時期だった二郎の心ををそばで支え、成功を見届け、最期の苦しむ姿は見せまいと手紙だけを遺し療養所のある高原へ帰った菜穂子の一途な様は、心を打たれました。
結局、二郎の作った飛行機は一機として戻らず、日本は敗戦を迎え、彼は何もかも失ったかのように見えます。(この時点で菜穂子は既に他界している)
しかし夢の世界で、初めてふたりが出会った時と同じに菜穂子が風を携え、二郎に逢いに戻り「生きて」と伝え(ここに今回のテーマの「風立ちぬ、いざ生きめやも」が集約されている気がします。)
彼女に感謝の意を述べる二郎の姿を最後に物語は終わります。
で、自分なりの勝手な解釈ですが今作にはつまり、豊かになり恵まれていても命を簡単に諦めてしまう現代人への激励の意味が込められているのかな、と。
命に限らず、現代人は僅かな挫折で何でもをすぐに諦める傾向にあるし。
現代でも主人公たちと同様に大震災の被害を受けましたが、この時代のふたりはその後の戦争でも多くを失い、更なる絶望を見たはずです。
それでも強く生きようとした姿を、脆弱になってしまった我々は見習わないといけないなぁとあたしは思いました。
テーマとなっている【風立ちぬ、いざ生きめやも】は
【まだ可能性はある、諦めず足掻いてみよう】ではないのかと感じた映画でした。
【2013.08.07/劇場鑑賞】
すばらしい作品でした
すばらしい作品だった。全てのカットが美しい。120分という放映時間は短すぎた。その分、この映画は行間に多くのメッセージが語られていた。
即ち、この作品の理解は、行間の理解の深さに強く依存する。換言すると、この映画を批評することは自分の感性を批評することでもあるのだ。とても作りが丁寧なので、その行間を読み取ることは誰にでも可能なのだから。
わたしは、今回キャスティングは大成功であったと感じた。西島秀俊さんと庵野秀明監督のが絡むシーンが沢山ある。庵野さんの代わりに、熟練した俳優や声優が二郎を演じ西島さんとからむシーンを想像してほしい。明らかに世界観が変わってしまうことに気づくはずだ。庵野さんだからこその世界観が在った。
そして、なによりもすばらしかったのが、菜穂子を演じた瀧本美織である。彼女は、その演技力を評価する高畑勳監督の強い推薦によってヒロイン役に抜擢されたことは有名な話である。彼女は、その期待に違わない、いや期待以上の演技を見せた。
わたしが、瀧本美織の真価を観たのは、結婚式のシーンである。ささやかな結婚式を用意してくれた二郎の上司にお礼を言うシーンの美織さんの演技は絶品であった。熟練した声優であれば、感情の高まりをコケティッシュな声色で演技し、感情表現に抑揚を込めるだろう。そして言葉尻で泣くのである。しかし、美織さんは、初めから泣いていた。声を震わせて泣いていたのである。彼女は、演技を超えていた。菜穂子として感謝し、泣き続けていた。残り少ない命を知りつつ感謝する菜穂子がそこにいた。すごい演技だった。
好きだけど1度が良いと思った(追記)
中一の息子と2人で見ました。
TV等での宣伝以外、できるだけ内容を知らずに見たかったので
レビュー等は鑑賞後に読みました。
自分的にはジブリの中で、かなり好きな作品でした。
仕事でも趣味でも物造りをしているので、作中の堀越二郎に感情移入しやすかったのと
ざっくりとしたストーリーなため 「 間 」 の中に様々な事を想像し、親として
作る者として、夫として、日本人として、多くの感情が溢れてきました。
かなり好きな作品ですが、人生がそうなように一度しか見ない事が大事なような気がしました。
ナウシカやラピュタは子供の頃から数えれば数十回は見てますが、この作品はそういった物では無いと思います。
誰かにすすめるかと聞かれれば、すすめたいのは数人しか思い浮かびません。
何か意図してるんだろと思うのですが「タバコ」「会釈」のシーンが非常に印象的でした。
また、庵野氏の声に関してはさほど気にならないが、若い声だなって思いました。
それと「子供向きではない」という意見も多いですが、ナウシカやハウル、アリエッティだって
幼児に真意なんて伝わりませんよね?
ただ、動きやキャラクターで見れてしまうだけです。
ジブリは子供向けってイメージは大人の勝手な解釈だと感じています。
息子も「よくわからない」と言ってましたが
少しでも心に残り、気になったら、何年後かに見てみればいいよと話ました。
(帰り道、作中の言葉で意味のわからないものは、できるだけ説明はしました)
ジブリだからという理由だけで見た人にはちょっと疑問があります。
私は映画が好きだしジブリも好きですが、もしもジブリが「長島茂雄物語」
なんて映画を作っても見に行かないし、子供も連れて行きません。
野球に興味が無い(嫌いといってもいい)、子供には長島茂雄が誰なのかわからないでしょう。
「風立ちぬ」で宮さんが何を伝えたかったのか
それは宮さん自身にしかわからないと思います。
堀越二郎は宮さんでもあったと思いますが、宮さんではない。
見た人それぞれに違う風が吹き、向かい風なのか追い風なのかも違うのですから。
鑑賞後5日経ちましたが、もう一回見たくなった・・・
CMで「飛行機雲」が聞こえてくるとなんとも言えない感覚
鳥肌が立つようになっちゃいました。
何かに本当に情熱を捧げたことのある人は泣ける映画
「風立ちぬ、いざ生きめやも」=「風が吹いてきた。さあ生きようとしなくてはいけない。」という意味らしい。
「人生において逆らいがたい情熱が巻き起こった時は、そのために精一杯生きるべき」ということだと思う。
主人公にとっての「風」は飛行機づくりの夢で、ヒロインにとっての「風」は主人公への愛だった。
風に飛ばされたヒロインのパラソルを主人公が受け止めたのは愛の暗喩なのかな。最後にパラソルが消えてしまうことを考えても。
風が吹き、彼女はその風に乗るために全力で生きた。主人公も風に乗せて紙飛行機を送った。彼女はそれを受け止める。彼女の風と主人公の風が交わる瞬間。「ナイスキャッチ!」と声に出して言うのはいつも彼女の方だったけれど、主人公はそれに微笑み返す。あれはそういう愛だったのだろう。
それでも、主人公の一番大きな風はいつでも飛行機づくりに向いていた。彼女を失いかけているときですら。それはある種の狂気かもしれない。けれど人生をかけて情熱を傾けるとはそういうことだ。
ヒロインの風はほんの少し彼の人生に寄り添って、そして途中で消えてしまった。
きれいなものを愛した主人公のためにきれいな思い出だけ残して、彼女の風は主人公を通り過ぎていく。
「だあれが風を見たでしょう
あなたも僕も見やしない
けれど木立を震わせて
風が通り過ぎてゆく」
主人公の風は最後まで止むことはなかった。愛する女性が消えてしまっても。彼の飛行機が亡国を招いたとしても。多くの兵士が彼の飛行機で死に、「一機も帰って来なかった」としても。
何もかもを失ってなお、彼の風は吹き続け、だから彼はその風に乗り生きた。風が吹いていたから。
だってカプローニさんは言ったのだ。
「創造的人生の持ち時間は10年だ。君の10年を力を尽くして生きなさい」と。
主人公の10年は、後半ボロボロだった。だけど彼の風はそこで止まなかった。だから彼はもう一度10年を生きるのだ。それは、クリエイターの業みたいなものなのだ。最愛の妻が結核を患っていても、作品づくりに没頭してしまえば無意識にその横で煙草に火をつけてしまう。あの批判が集中しているシーンには、主人公のクリエイターとしての業が集約していると思う。
「生きることは美しく残酷で、そうしてもし風が吹いたならば、情熱があるならば、さあ我々は生きなければならない。」
私は若輩者なので倍以上生きてる宮崎さんの思考なんて分からないけど、ものづくりに人生を捧げた彼が作ったこれは、そういう作品なんだろうな、と見終わって思った。
名作だと思います。
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