風立ちぬのレビュー・感想・評価
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棒読みがすべてを台無しにしている
もともとジブリ映画にそこまで興味はないのだが、悪いうわさがあったのでちょっと怖いもの見たさで鑑賞。
聞くに堪えない棒読み。監督なりのこだわりらしいけど、あれは不快になるレベル。
感情移入しないだろうとかいう理由だけど、感情ならしっかり出てきましたよ。
そう、不快と怒りという感情で。
おかげで全然ストーリーが頭に入ってこない。苦痛オブ苦痛。
もうちょっと後になるとうまくなったというらしいけど、たいして変わりがない。
相変わらず不快。
はっきり言ってジブリというブランドに甘えている。
中身がどうだったか思い出せないくらいイライラしていた。
最後まで見る気も起きない内容でした。
声優を使わないというポリシーは持っていてもかまわないが、人選はちゃんとしてほしい。
面白いがフィクション
この映画は、堀越二郎の名を借りて「創作の為に他の全てを犠牲にしてきた宮崎駿の自分語りと弁明の映画」であって、堀越二郎の話でも零戦の話でもない。これら固有名詞との関係は完全なフィクションと言って良い。
それにしても、宮崎駿の才能は物凄いのだが、敗戦による価値観の大転換で180°逆振れした軍国少年が左翼に人生を絡め取られてしまったところは何とも痛い。
劇中、軍部は言葉にならぬ雑音だけを話す「人語ではなく、何を言っているか判らないただの馬鹿」として描かれている。
実際の堀越二郎は、本人の著書でも明らかな様に、零戦の使用者である軍に誠実に敬意を払った上で、美しさにもこだわる工学者として解決に心血を注いだ事が明記されている。そして無茶な要求を解決してゆく事にカタルシスを感じ、彼の「作品」を目にした軍のパイロット達が「大きいが、格好のいい飛行機だ」と喜ぶ場面を心底嬉しげに記している。それは理系脳を理解できない宮崎駿には全く見えなかった(見たくなかった)光景だ。
堀越二郎及び零戦とはほぼ無関係な話としては標準を超えて楽しめるが、あくまて宮崎駿史観で描かれたフィクションである事は理解して観たほうがよい。
宮崎駿監督からの激励
結論として、面白かったし、テーマ性も良かった。テーマ性というが宮崎駿の言いたい事は、作品を見る『日本の少年』達に対して二郎のようにいろんな障害に揉まれながらも藻掻いて自分の目的に向かって邁進していけという激励かと思う。
夢という象徴を多様した作品なので、物語は実際の日本の出来事ではあるが夢の描写が視覚的なファンタジー要素となっており、子供でも楽しめる内容だと思う。全体的に宮崎駿の趣味が全開となっている感じがしたし、堀越二郎 = 宮崎駿のようにも感じた。
戦争の泥臭さとは隔絶された場所での彼の格闘は、勝ちにつながらなかったが二郎を中心に『ゼロ』の結実に向けて前進し目的を達成したという意味で価値があると思う。また、里見菜穂子のポジションは堀越二郎の頑張りになくてはならなかったものだと思う。個人的には、最後の描写も含めてグレンラガンというアニメ作品における登場人物でヒロインであるニアが思い浮かんだ。
今作を見てあらためて主人公に目的意識があり、その障害と格闘してあがいていく作品は面白いと学んだ。
9年越しの2度目の鑑賞で号泣しました。
1回目に見たのは、本作が公開された年の夏。家族で見に行きました。当時私は小学生で何一つ理解できていなかった挙句、つまらなかったと言っていた覚えがあります。今思えば小学生が内容をよく理解して感動することは不可能だったと思います。
ちょうど9年ほど経った今、金曜ロードショーで放送された際の録画を観て初めてこの映画の切なさ、美しさ、儚さを理解して大号泣しました。特に、黒川夫人が美しいところだけ…(略)と言ったシーンからは人を愛すことの切なさのような、儚さのようなものを感じました。また、戦時中存在した数々の体当たりの戦闘機の一つ、後の大戦でも多くの軍人の命を奪った零戦。これを生み出した人間はどれだけ残酷な人間なのだろうと思っていました。が、映画によると生みの親は主人公の二郎であり、こんなに賢明で素敵な人の純粋な憧れの思いから生まれた飛行機がこんなにも残酷で憎い使われ方をしたのかと。本来憎まれるような人間ではない二郎が何人もの人にどれだけ憎まれたのだろうと思うとまた涙が止まりませんでした。そして主人公二郎のセリフが棒読みだなどと賛否両論ある庵野さんの声でしたが、二郎という人間の感情が表に出にくい性格、穏やかで強い人物像というのがよく伝わってきて私は庵野さんが抜擢されたのは大正解だと思っています。声とキャラクターのマッチ度もあり、個人的に二郎は観ていて人間として、男性として愛らしかったです。そしてその二郎に愛し愛されるヒロインの菜穂子も美しく力強い日本人らしい綺麗な女性で大好きです。近年男女差別をなくそうという動きが高まっていることを受け、いまだに残る日本男児的な考え方は本当にいかがな物かと思っていましたが、この二人のお互いへの各々の思いや時代背景からすると、昔の男性の勇ましさ、女性の健気さや気高さといった古風な考え方も簡単に捨てたものでは無いんだなと痛感しました。また数年経ってからも見返したい映画です。
零戦設計士の話で、宮崎駿の描きたいことが存分に描かれている作品。 ...
英語吹替版もぜひ◎
機内. English ver
久しぶりに見たらめっちゃ良かったなあ。
それに英語吹き替え版で見たのだけれど、これがめっちゃ良かった。
何より、二郎の声がめっちゃ合ってた!
マイペースさもありながら、でも庵野さんほどおとぼけ声じゃないというか。ちゃんと格好いいところは格好いい。
英語吹替版で見ると二郎が10倍格好良く見える。
こういうと庵野さんを否定してるみたいだけど、庵野さんのせいではない。
ちゃんとやっぱり声優さんとか俳優さん起用した方が、やっぱりいいような気がする。でも作品を作ったのは宮崎さんだから彼的にぴったりだったんだろうな。庵野さんの声が。
でも、英語版の声を聞いちゃうと「うわーーーやっぱもうちょっとシュッとした声の方が二郎の魅力が増すのになーー」という何とも悔しい気持ちになる。笑 多分、二郎のキャラがジブリ男子の中でも好きなキャラだからだろう。
声の馴染み具合からだろうけど、本庄とのバディー感、コンビ感も増す。
ジブリは日本の作品だし、内容的にも日本色強めなのに、英語版の方もかなりしっくりきた。不思議と。
風立ちぬの英語吹き替え版もDVDで見れたらいいのに...そしたら買うのになあ...リージョンが違うDVDとプレイヤーを買わなきゃダメなのかなあ...。
地震の表現
独特だったけど、すごいなと思った。
気味の悪い低いボイスで地震や余震への恐怖を表したこと。
地震は来ることも、来た瞬間も目や耳で表しにくい。
起こった後の結果・災害は表現しやすくても、今来てる!!って感じを表すのは難しい。
それをあの動きやボイスで表していた。
地震の最中の感覚や、一旦止まったけどまだなんか来そう...ってじっと様子を見るあの瞬間の感覚とか、あのどきどき、地震が起こる国の人はわかると思うけど地震を体験したことがない人はなかなかわからないだろう。
あの低いうめき声、まるでモンスターが唸っているような声だったけど
地震、という目で見えないものに対する恐怖が、得体の知れないモンスターを恐れる恐怖と似ていて。結果的に「地震」というものを感覚的に伝えるのにぴったりな感じになっていた。すごいなと思った。
ただ真っ直ぐに、自分の興味あるものにひたすら向かっていく。
それってすごく羨ましい。
好き。だからそれをする。このシンプルな動きがまぶしい。
困っている人がいる、助ける。ここにも余計なごちゃごちゃがない。
とりあえず先に動いてしまっている。
自分は結構頭であーだこーだ考えてから行動する生き方を30年ほどして、
その上で、これからはそんなに頭で考えなくていいかなって思っている。
もう十分ごちゃごちゃ考えた。そしてごちゃごちゃ考えきった気がする。
世の中は、そこまで考えを回したり、気を回しすぎたりしなくても大丈夫なんだとわかり始めた。見えてないこと、気づいてないこと、気遣えてないこと、あるのかもしれない。でも一人の人間にできることっていうのには限界があって、一人で全部完璧に網羅しなくても大丈夫、むしろその方が周りは気楽だったり、それでちょうど良かったりするんだと。
そういうことを実感できるようになってからは、確実に生きるのが楽になった。
二郎さんも、もしかしたら抜けてるところあるのかもしれない。
どうなの?ってとこがあるのかもしれない。でも、完璧に生きる必要って?誰のために?何のために?
二郎が、二郎の人生を生ききっているのを見た。
二郎の中でやれることを、最大限やっていた。
他人から見れば、もっとこうすべきああすべきがあるのかもしれない。でも彼の中での最大限、最善、を彼が選択したのだから。それでいいんだと思う。
そういう、誰かに媚びてるとかではない、たんたんと、自分のすべきことに熱心に、生きている人の姿を見る。
とても、すがすがしい気持ちになった。
堀辰雄、ではなく堀越二郎
大空へと
黙々と一人の青年の努力によって大事業はなされていくのか
2022 1本目(TV 1)
タイトルなし(ネタバレ)
最近ジブリ映画は観なくなっていたのだが、庵野秀明が声優をやっているというのを今更ながらに知り、金曜ロードショーで視聴。前知識はその程度しかなく、視聴が終わった後に調べて零戦を設計した堀越二郎をモチーフにした作品であると知りました。個人的に時代がどんどん流れて行くのが非常に良かったです。一つの場面の長さが少なく、飽きが来る前に次のシーンへと移り変わります。
二郎は菜穂子に出会うまで仕事一直線という感じであり、出会ってからも仕事がメインという感じでまさに仕事人間という感じです。菜穂子が療養所に行ってしまっても追い掛ける様子もないため、結婚するために家まで行ってたのに理解出来ないと思った人も多いのではないでしょうか。しかし二郎は菜穂子の意図を汲み取り、仕事を続けることを選びます。
仕事をしたことが無い子供はもちろん、おそらくものづくりの仕事に一切携わったことがない人は面白くないと思うのでは?と偏見ながら思ってしまいます。私自身は文系ですが、二郎が飛行にのめり込むことが非常に納得出来ます。それほど二郎の環境は恵まれており、理解のある上司、ライバルというよりも共に高め合う同僚、応援してくれる菜穂子。仕事に邁進し、夢を追い、技術を高める環境が整っています。
近代化して行く日本が太平洋戦争を経て焼け野原になる。その一端を担った二郎は自責の念に囚われるということがありません。薄情だとか罪悪感が無いのかと怒る人もいるかも知れませんが、零戦が出来ようが出来なかろうが戦争は起こったでしょうし、そこにいちいち罪悪感を持つなんてのもおかしな話です。
人を選びますが先述した通り、ものづくりの経験がある人には非常に楽しめる作品だと思います。最初は酷い棒読みだと思った庵野秀明の声優も段々癖になって来ます。感情移入させない為に庵野を起用したそうですが、後半ちょっと上手くなってるのもいい塩梅です。恋愛映画だと思って観るとなんじゃこりゃ?と思うことは間違いないです。
大人向けのジブリ作品
「日傘の女」をコードに風立ちぬを読む
菜穂子が、丘の上にパラソルを立てて、スカートを揺らめかせて、絵を描いている場面をみて、モネの「日傘の女たち」を思い起こした。モネの妻のカミーユが若くして病気で死んだように、菜穂子も死んでしまうということが暗示されているように思う。
二郎は美しいものが好きで、その最たるものが飛行機である。きっと二郎は飛行機の次に菜穂子が、美しいから、好き。二郎は美しいものにしか興味がない。たとえば、美しくない妹との約束はいつも忘れる(美しくないから興味がない)だからこそ、妹にも「にいにいは薄情者です」と言われてしまう。
モネも妻のカミーユが死んだ時、「深く愛した彼女を記憶しようとする前に、彼女の変化する顔の色彩に強く反応していたのだ」という言葉を遺し、彼女の死顔を「死の床のカミーユ・モネ」という絵に残した。妻への愛情より、色彩のうつろいゆく変化の方に惹かれてしまうのである。
二郎とモネという天才に共通する、薄情さ、というか、天才すぎるゆえに人間らしさが抜け落ちてしまっている部分が伺えるように思う。
二郎が美しいものにしか興味がないことは、菜穂子はわかっている。だからこそ、菜穂子は一人で山に帰って、一人で死ぬ。そうすることで、二郎の記憶には美しいままの菜穂子の姿だけが残る。菜穂子は、黒川の奥さんが「きれいなところだけを好きな人に見てもらったのね」と言うように、美しい部分だけを見せる。
二郎も菜穂子も、互いに歪んだ愛情を持っているように思う。
菜穂子は絵を描く画家であり、カミーユは、画家に描かれるモデルである。描く/描かれるという差異は、死顔を見せず美しいまま死ぬ菜穂子と、美しいとは言えない青ざめていく死顔すら描かれてしまうカミーユ、という対照的な死に方にも表れる。
菜穂子は美しいまま死ぬことによって、「永遠の女」になる。菜穂子が闘病でぼろぼろな姿になったり、病気なく老いていったとすれば、きっと、美しいものにしか興味を持たない二郎は菜穂子を愛せなくなるだろう。
最後の場面でカプローニが菜穂子を「美しい風のような人だ」と言う。モネはかつて「人物を風景のように描きたい」と言い、「日傘の女」の姿を風と同化させて描いている。
つまり、この物語においては、結局、菜穂子は風景にしかすぎず、二郎が前景化されていく「二郎と零戦の物語」だ、と解釈することができるだろう。
この物語は、非常に美しく見えるが、読み解いていくと、その美しさと同じくらい残酷な物語であるといえるのである。
メモ
・永遠の女にはダンテ「神曲」のベアトリーチェも重ねられている。
後からじわじわ
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