「二郎の生き様に、『風』を感じました。人の出会いはまるで風のごとく吹き抜けて、立ち止まることはないのですね。」風立ちぬ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
二郎の生き様に、『風』を感じました。人の出会いはまるで風のごとく吹き抜けて、立ち止まることはないのですね。
これまでのジブリ作品や多くのアニメ作品が子供を対象としてきたなかで、初めて大人の鑑賞のための純愛作品となったのが本作。主人公の二郎と菜穂子が織りなす純愛は、キラリと小玉の輝き放ち、観客を魅了し、試写会終了時には大きな拍手に包まれました。
本作の魅力は、関東大震災から、戦争が始まる昭和初期という暗い時代が背景なのに、そのことを糾弾せず、自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物の純情と純愛を描いていることです。暗さや悲惨さにあまり触れていないことと、宮崎監督作品にしては、珍しく文明批判とか持論の反戦平和を露骨に語ることもない、毒気のない仕上がりがとてもいいと思えました。それについては公開後に、あの時代を美化しすぎているという物議を醸し出しそうです。でも、たとえどんな時代であるとも、まっすぐに人を愛することの美しさは変わらないことを見事に切りとって見せていると思います。特に、菜穂子が花嫁として登場するシーンは本当に美しく、素直に感動してしまいました。
そんなピュアな心情の描写に磨きをかけるのは、これまた美しい映像美と音楽です。特筆すべき点は、背景の遠景に至るまで、非常に緻密に描写されていることです。水や森、雲のリアルな質感。そして何よりももう一つの主役である「風」の吹き抜ける描写が、自然で素晴らしいのです。
これは憶測ですが、年齢からいって宮崎監督の最後の一作となるかもしれない本作のために、スタジオシブリが総力を挙げて描いたという意気込みが、ヒシヒシ伝わってくる緻密さでした。おそらく日本のアニメ技術の最高峰といっていい出来上がりではないかと思えます。そして、色調も彩度が高めでメリハリがあるのにとてもカラフルで、ファンステックなんですね。
それに合わせる 久石譲の音楽もとてもステキで、ギターの独奏とストリングスが情感をたっぷりに歌い上げてくるのです。主題歌の「ひこうき雲」もまるでこの映画のために作られたかのような填りよう。この歌は、 当時16歳だった荒井由実が死んでしまった友人を弔うために捧げた楽曲だったとか。そんなエピソードが込められているからこそ、しっくりくるのですね。
ただ結末は、尻切れトンボになってしまったのが残念。時間の関係なのでしょうか、それともシャイな宮崎監督はふたりの結末まであからさまに描くことをためらったのでしょうか。ラストシーンを迎えた試写会場でも、観客の“ああ~”という大きなため息に包まれました。心情としては、最後まで描いて欲しかったです。
ひょっとして、堀辰雄の原作と堀越二郎を合体させたストーリーの矛楯から、ふたりの最後の心情を描き切れなかったのかもしれません。その矛楯とは宮崎監督自身の心の中にある、「兵器である戦闘機などが好きな自分」と「戦争反対を訴える自分」という矛楯を抱えた自らの姿が、投影されていることからきています。戦闘機の開発にのめり込むことが、平和の象徴たる菜穂子を結核の末期なのに放置して、そのいのちを蝕む現実から逃避してしまう矛楯。まして、飛行機への夢の追求が、武器となって多くのいのちを奪う事態を招く矛楯について二郎はどう思っていたのか、結局その矛楯には触れられずに終わりました。でも純愛作品としては、逆にそういう結末のほうが良かったのかもしれません。
二つの話の合体だけに、ふたりが再会してラブストーリーが展開するのは、後半になってから。かなりじらされます。前半は、二郎が飛行機設計に関わるエピソードが語られます。この部分が長くなるのは、宮崎監督自身に格別の思いがあるから。実は、監督の父親も飛行機設計技師で、主人公の二郎と重なるところが多々あったからのです。
でも後半からの菜穂子の登場方が待っているから、この部分も駆け足にならざるを得ません。加えて二郎がなぜ飛行機設計にのめり込んだかという過程があまり詳しく触れられないのは、夢のシーンのため。重要な転機となるエピソードは、全て夢の中で語られるという展開も、分かりづらいところでした。夢のシーンは、航空機産業黎明期の功労者であるカプローニ伯爵との同じ志を持つ者同志の時空をこえた友情を描くために、考えられた展開だろうと思います。でも、まるでウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』のように突然夢の世界にワープする展開をとるよりも、もっと現実世界での二郎が飛行機設計による夢の実現に時間を割いて欲しかったです。
さて、本作では、『生きねば』というテーマが、全編を貫いて描かれていました。
作中に登場する「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句は、ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節“Le vent se leve, il faut tenter de vivre”を、原作者である堀辰雄が訳したものです。「生きようか、いやそんなことはない」の意ですが、「いざ」は、「さあ」という意の強い語感で「め」に係り、「生きようじゃないか」という意が同時に含まれています。
ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的なものと、その後に襲ってくる不安な状況を予覚したものが一体となっています。
また、過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえているのです。
宮崎監督と鈴木プロデューサーは、「いざ生きめやも」という言葉をもっと分かりやすく言い換える言葉を探して、キャッチフレーズの『生きねば』という言葉に行き着きいたそうです。その思いが劇中の二郎と菜穂子に投影されて、命を縮めてでも療養生活を放棄して結婚を強行。たとえ短くともふたりで幸せに過ごせる時間を共にする選択に向かわせたのだと思います。
菜穂子のモデルは、原作の作中の「私」の婚約者・節子であり、さらにそのモデルは、堀辰雄と1934年に婚約。翌年に12月に死去した矢野綾子という現実に存在した女性でした。本作の純愛に胸打たれるのは、宮崎監督の頭で考えたフィクションでなく、実際に堀辰雄が抱いた愛する伴侶への愛と悲しみが色濃く織り込まれているからです。本作からも、僅か1年余の結婚生活で堀辰雄が抱いた『生きねば』という切ない思いがよく伝わってきました。
愛する人ととの死別が近いことが分かっていても、決して怯むことなく飛行機設計に立ち向かっていった二郎の生き様に、『風』を感じました。人の出会いはまるで風のごとく吹き抜けて、立ち止まることはないのですね。
宮崎駿監督の弟子筋に当たる庵野監督の吹替え初挑戦は、朴訥な人柄がそのまま二郎にマッチしていて、素人とは思えない填りようでした。この仕返しは、今度庵野監督作品に師匠の宮崎監督を強制的に出演させることですね(^^ゞ