「金太郎飴のように変化に乏しいだけの映画」ジャッキー・コーガン Ryuu topiann(リュウとぴあん)さんの映画レビュー(感想・評価)
金太郎飴のように変化に乏しいだけの映画
この作品を観ていると「ドライヴ」を観た時のような、映像的な、美しさと、あの画面とは真逆のスローテンポな表現方法など、観ていて、非常に味の有るイイ感じの面白い作品ではあった。
しかし、ストーリー展開に大きな山場が無い。これは、観ていて苦痛の種になった。
そこで、ついつい睡魔との挌闘に成る為に集中力が低下する。幸いにも意識は何とか保っていましたが・・・
私は先程、友人に「図書館戦争」を酷評した事で、注意を受けたのだが、つくづく自分は直球が好きなタイプで、直球を投げ込んで来てくれる様な映画作品でないと、好きになれないタイプだと改めて確認した。
良く言えば、単純明快・悪く言えば非常にキャパが狭い人間と言う事になるのだろう。
それ故、本作も超速球を投げてくれない作品なので、自分の好み的には、ハッキリ駄目なタイプの映画だ。白黒はっきりしないと駄目なのだ。或いはグレーもしっかり黒と白と同一線上に認める作品なら評価する。
「アメリカ国家は共同体であり、みんな夢と希望を信じて良い」と言う大統領の言葉を否定するセリフを主人公の殺し屋に吐かせても、ピンとこないラストなのだ。
チャップリンが「何故個人が殺人を犯したら、罪で、国家が行う大量殺人である戦争は正義になるのか?」と言ったけれども、国家の矛盾や、理想をダーティーヒーローに語らせる作風はこれまでにも何度も使われて来た手法で、それを否定しても、意味が無いのは理解しているが、本作でこんな結末を見せられても、困ってしまうよね。
悪人は悪人で、ソフトに殺そうが、人殺しは人殺しなのだ。その殺し屋が金を総てと言っても何の説得力も皆無だ!
非常に例えが悪いかも知れないが、非暴力でインドを植民地化から解放させたガンジー等がもしも、金こそ総てで信じられるのは己のみと言ったのなら新たな意見として説得力もあるだろうが、人殺しは、金の為に人の命を奪う事を悪いと思わないのが前提だもの、その人物にカネと言わせても何だかなぁ~と言う気持ちになってしまった。
チャップリンの描いた作品の、殺人者とは訳が違うのだと思う。
最近観た「よりよき人生」では、追い詰められた主人公が思い余って、サラ金のようなヤクザを襲って、金を横領し、国外へ行き人生をやり直すと言う映画であったが、この映画はどこか、あの名作「自転車泥棒」に似ている感じなのだが、自転車泥棒では、お天道様が必ずどこかで観ていると言う視点が加わっていた様に思うのだ。チャップリンの映画も同様だと思う。最近はどうも、この日本的な表現で俗に言う「おてんとうさまが何処かで見ていてくれる」と言う正義が映画の描く世界の中で欠落した様に思うのは、少し大袈裟なのだろうか?欧米社会でも、以前は必ず神の視点と言うものが存在していた。
そんな綺麗事ばかりで無い現実社会を汚れていると言っても良いし、理想を述べても一向に良いのだが、当然の事を映画でそのまま言っても、映画としての面白味は全く無い。
何だか消化出来ない不満が募るだけなのは、自分だけなのだろうか?