「崇高なる映画への慈愛」嘆きのピエタ アルベルチーヌさんの映画レビュー(感想・評価)
崇高なる映画への慈愛
これ程 感銘を受けた映画は近年ありませんでした。
ル・シネマの火曜サービスデーにて鑑賞。
ベネチアの評価から劇場は混み合うと予測するも懸念に及ばず。
国内においてのアートシネマが軽視化されている現状を追認。
さらに、憂慮すべきは本作の主題が性や暴力の描写によって曲解される事。この側面によって「気持ち悪い」「難解だ」と評せられる事はキム・ギドク監督自身も承知の筈。それ故に、これらの描写を必然と容認できる方のみが本作の真意に触れられるといえる。
逆に言えば、「気持ち悪い」「難解だ」と感じる方は、幸福な日々を営んでいるのだともいえる。現代社会に順応できて、日常生活を当たり前に過ごしている人には不必要な映画。「人間ドラマ」で感動を得るため本作を観ようと思っている方は、きっと裏切られます。監督もそのような鑑賞者を前提にしていない筈。
現代人がタブーとする人間の獣性を示し、人間性の真意を描き切ろうとしている監督の意図が理解できるという自信のある方のみに観てもらいたい。
自慰や肉体の切断等のシーンは決してダイレクトな描写ではない。が、これがかえって、鑑賞者に嫌悪感を抱かせるのだと推察。その嫌悪感からこれらのシーンの必然性を否定したくなる気持ちもわかる。が、それに向き合わないと作品の主題が霧散する。
これら人間の獣性を白眼視するのは現代人が持つある種のエゴ。
人間性の復元・魂の浄化・無償の慈愛といった宗教学的テーマに取組むなら、人間の本能を真摯に描写し表現しなければ映画作品としての成立はない。キム・ギドク監督の強い意志を痛感。
作中の人物がとる言動を単にエキセントリックだと解するのは容易い。借金返済のために自らを不具者となる事を余儀なくされる工場主、愛する夫の健全な身心の保全のため自らの貞操を悪の権化に捧げようとする妻、母性の枯渇から夢精が日常化している冷血漢、我が子の死に直面し倒錯した復讐を遂行する母親。他にも愛くるしい笑みをたたえる老婆や無垢な瞳の少年も奇行に走る。
作中にはこのような市井の人々を苛む試練が断片的に続き、鑑賞者に詰問する。何故、罪なき人々が贖罪の羊とならねばならないのか。このキム・ギドク監督の問いかけは、安穏とした日々を過ごす現代人を、唐突であるが故に戸惑わせる。
単なる奇行に過ぎないと一蹴するのは容易い。が、人間の本質を歪めている元凶は何なのかを探求する義務まで我々は放棄してもよいのかと、この映画は詰問する。
また、この映画の主題でもある母性原理の回帰について言及せざるを得ない。我が息子を死に追いやった男に復讐を挑む母がとった行動は綿密で冷酷。が、ここで思慮して頂きたい。この計画の完遂に不可欠なのは、どのような冷血漢にも母性愛を求める人間の本能が存在すという確固たる信念に他ならない。このことから、母性愛とは、唯一無二の真理であり、すべての人間に備わる本能であるのだと雄弁に語らしめている。
この崇高な真理を具現するために、あえて現代人が忌み嫌う人間の獣性をモチーフに据えるのは最も妥当な表現手段だといえる。
映画というメディアを映画産業の経済の中にカテゴライズするなら、本作は興行収入の見込みが乏しい作品となるが、それを周知しながらこの表現手段を貫く監督・これを容認する製作者に敬意を賞したい。
これが金獅子の評価だと私は解した。
現代社会(アジア)の内包する矛盾(暗部)を訴求するという伏線もあるが、それに気をとられては作品の根幹を見失う。設定は近過去のソウルだが、あくまでも本作の主題は人間の内面世界。設定がどこであろうと揺るぐことのない崇高な主題ともいえる。
ラストシーンで「人間の体液の量」に関心が向いてしまうような方もいるようだが、私にとってこのシーンは作品の真意を詩情豊かに表現した重要なもの。
こんなにも 美しく 静謐な ラストシーンを私は観たことがありません。