「善意が悪意に変わるとき」偽りなき者 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
善意が悪意に変わるとき
この映画には善人しか出てこない。主人公のルーカスはもちろん、親友のテオも、園長のグレタも、地域社会の誰もがごくごく平凡な善人なのだ。
だからこそ、怖い。
誰もが善人で、誰もが「安心と安全を守りたい」と願う。だから、些細な事がどんどん大きくなっていく。それがこの映画の恐怖であり、醍醐味だ。
観ている私たちは、ルーカスの無実を知っている。クララに何があったのか、問いかける様を「誘導尋問だ」と思うことが出来る。
しかし、グレタの立場だったらどうだろう?
クララぐらいの歳の子どもが、男性の性的興奮状態を虚偽の証言として口にする可能性を考えられるだろうか。
もし、どちらかが嘘をついているとして、どちらの嘘に惑わされる方がリスクが少ないと判断するだろうか。
全体の安全を考えたとき、ルーカスに騙されるリスクとクララに騙されるリスクでは、大きさの違いは明白だ。
大切なのは「真実」ではなく「安全」だ。
それを言っては身も蓋もないから、だから「子どもは嘘をつかない!」というファンタジーに逃げるしかないのである。
全てが悪い方へと転がっていく中で、ルーカスはそれでも高潔さを貫き、卑屈になることも逃げることもなく、普段通り生活しようとする。
偽りの烙印を受け入れない、たったひとつの道を踏み外さないように。
何もかもを目撃している私たちは、事の成り行きの不当さに憤り、グツグツと煮えたぎる感情を持て余しながら、スクリーンにのめり込んでいくことになる。
愛と恐怖が織り成す社会の不安定さに、背筋が凍るような感情を覚えながら。
一度生まれた疑念は、相当な努力を持ってもなかなか解決はしない。事件は、どんな立場の人にも大きく影響を残すものだ。
幼児への性的虐待に限らず、似たような事象は至るところで発生する。
「安心と安全」を求め、誰かを悪者にし、犠牲を当然と思うことで精神の安定を得る。正しさよりも安心を優先し、みんなでマスクをつける世界と何も変わらない。
この映画で起きていることは、観ている私たちと全く無関係ではないのだ。
今作「偽りなき者」は、デンマークでは歴代オープニング興業成績2位を記録したそうだ。
こういう映画に関心が集まり、実際に映画館に足を運ぶ人が多いのは素晴らしい。
己の中にある恐怖から安易に逃げずに、ルーカスのように高潔でありたいと、そう願う。