利休にたずねよのレビュー・感想・評価
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ネトウヨにボコボコにされた不運はあるけれど…
この映画は、かなり不運でした。
公開当時はネトウヨが一番元気だった頃。「韓国の国策映画」だの「朝鮮人に利休が汚されている」だの、ネットに踊らされた連中が散々っぱら映画.comにもヘイトを書き込みました。
2021年の今、彼らは恐らく誹謗中傷を書き込んだ件での訴訟に追われていることでしょう。未だ消化できてない承認欲求のローラーに圧し潰されながら。自業自得です。
しかしそれを考慮しても、映画の内容自体はとても出来がいいとは言えませんでした。
まず、利休自体が映画にしにくい歴史人物です。
それは彼の抱えていた複雑な世界観を表現する必要があるからで、真面目にやると「何を考えているかわからない地味な人物」になってしまいます。
にもかかわらず、この映画の豊臣秀吉は分かりやすい悪役です。難解な主人公と単純明快な悪役。これほどソリの合わないモノはありません。
だから、利休も秀吉に合わせて単純明快な主人公にすればよかったと思います。
高麗の女は役者さんもとても良かったと思いますが、いかんせんその好材料をまったく生かしていません。
展開が駆け足で、若い頃の利休と高麗の女が相思相愛になる過程がまるで見えませんでした。このあたり、当時の国際情勢も踏まえてじっくり描くべきでは……。
それと、これは根本的なことなのですが、海老蔵って大根ですね。
この人は30秒くらいのCMでなら抜群の存在感を発揮しますが、長い尺の映画になるとまるで人形のようです。泣き叫ぶシーンなんか、まるで関東連合の兄ちゃんに灰皿でぶん殴られた酔っ払いのようでした。
仮にネトウヨが存在しなかったとしても、この作品は大した評価を得られることはなかったと思います。
美の理論
テレビ大阪「シネマクラブ」を録画して鑑賞。
原作は未読です。
織田信長と千利休が邂逅した序盤のシーンに感心させられました。すごいと思ったのは、水盆に映った月がこれほど美しいと云うだけでなく、その献上品を披露するためには相当入念な準備が必要だったのではないかと云うことです。
縁側から月が見えることを調べなければいけないし、上手く月を映すための角度と時間を割り出さなければならない。その結果、時間を合わせるためにわざと遅れて登場した。それを自然にやりのけた利休の所作も素晴らしかった。それらを瞬時に見抜いた信長の慧眼すごい。優秀な人の周りには自然と優秀な人が集まって来る理由とは、こう云うことなのか、と…。
茶の道を極め、戦国武将たちから崇められていく利休。その結果、天下人となった秀吉に疎まれて切腹させられました。最大の要因として、利休に嫉妬し、侘び寂びに抗うかのように贅を尽くしてきらびやかに振る舞えば振る舞うほど、秀吉自身の存在が矮小になってしまうのが許せなかったんじゃないかなと思いました。盛大に開かれた茶会のシーンを観て、強く印象づけられました。あの場では、明らかに利休の方が格上でした。
切腹の理由のひとつとして、利休が大切にしていた香炉を秀吉に譲らなかったと云うものがありました。そこから利休の美の原点となった高麗の女との非恋が回想されました。おそらく創作なのでしょうが涙無しには観られないエピソードでした。
――
未完成なもの・不完全なものの中に美を見出すと云う考え、身分など関係無くなってしまう茶室の空間づくりなど、利休が確立した美の世界はとても深遠で、息を呑むような卓越した理論で成り立っているんだなと思いました。
最後に私がおたずねしたかったのは・・
映画「利休にたずねよ」(田中光敏監督)から。
原作の作家・山本兼一さんからは、OKが出たのだろうか、
利休切腹の日から順に遡っていく展開に、新鮮さを感じて
小説を読み切ったので、この変わりようにやや戸惑った、が
鑑賞後の印象であった。
そんな中でも、原作にない素敵な台詞もありメモは増えた。
「私が選んだ品に伝説が生まれます」
「全ての重荷を一度下ろされたらよろしいのです」
「今生きてる喜びをこの一服の茶で味わいなさいませ」
「(茶には)人を殺してもなお手にしたいだけの美しさがございます」
「世の中が美しいもので動いているのでございます」
「私が額ずく(ぬかずく)ものは、美しいものだけでございます」
言葉は丁寧だが「美」に対する執念は強く、秀吉の命でも従わない、
利休らしい生き方を随所に見ることが出来た。
せっかく「鋭利な刃物(錐)もいいが、少しは休んだらどうか」
と言う意味の「利休」の号を戴いたのに、
最後の最後まで「鋭利な刃物」(尖った錐)のままだったことが、
惜しまれて仕方がない。
「才能におぼれずに『老古錐』の境地を目指せ」という意味が
込められていたという。
(「老古錐」とは、使い古して先の丸くなった錐のこと)
作品ラストに流れる、妻・宗恩の意味深なナレーション、
「最後に私がおたずねしたかったのは・・」を残しておこう。
(映画だけで、この意味が分かりにくいと思うので・・)
フィクションもあり
序盤からラスト手前までは普通に見れましたが、最後の緑の壺の展開に違和感…
高句麗の女性との非恋のやりとりが原点とでもいわんばかりの演出への疑問を感じつつも、利休の美しさに向かう心、人をもてなす心を味わうことができました。
まあフィクションなので気にしませんが、普通にみたら史実に誤解を生むような話ですね。
本物にたずねよ。
原作は未読。
海老蔵が千利休に!?っていう違和感をまず抱くものの、
今作では後半、おそらくフィクション?の恋愛絵巻が挿入
されているため、彼はここで猛然と有終の美を飾っている。
う~ん…似合っているかは別として、まぁまぁだった。
演技は悪くない、ただやけに色が黒いため^^;今も遊び人の
印象は拭えなかった。なんかこう…お茶を立てるというより、
お茶しない?ってナンパしている方が似合っているというか。
(ゴメンなさい、つい本音が)
そして圧巻の嫌味マン演技の秀吉・大森南朋にのまれる。
先日観た作品では秀吉を大泉洋が演じていたが、
今作では策士家というイメージよりも、冒頭から嫌なヤツと
いう感じで描かれている。これがまた、かな~り巧い。
ベラベラ喋りまくる秀吉と、静かに美を見極める千利休。
これを普段あまり喋らない大森と、口から生まれた海老蔵という、
対照的な役者が演っているのが面白い。
私的にはやはり、黙ってる海老蔵というのに違和感があり^^;
さて、物語は切腹を控えた利休が過去の出来事を回想していく
という展開。傍で寄り添う妻・宗恩に中谷美紀。
彼女も巧いのだが、早々に夫には想い人がいたのでは?という
妻の勘を働かせつつ夫に従い、最後には嫉妬の境地を静かに
指し示す…という、難しい演技。なんか私生活を見てるみたい。
夫がずーっと認めていたあの高麗器。さぞ恨めしかったろうに。
2013年2月に突然他界した、市川團十郎との親子共演も見もの。
お父さんにはすっかり頭が上がりません…という感じの海老蔵が
悪戯した子供のように見え、やはりさすがの風格を持つ團十郎を
改めて目に焼き付けることに。本物って違うわね、茶器も人間も。
(静かな物語だけど前半と後半でガラリと様変わりするのが妙技)
手元の美しさがあった
利休の書式の美しさは愛しい人を目の前で失くした罪の意識から自分自身の弱さを美しいさで膿めて許される対する探求心埋めて自分自身も心も優しい人を想う気持ちを作っていくのだと想ったそれが私には切なくて美しい過ぎた罪と罰は背中合わせだと感じました心から愛する人に出会いたいたいですよね!
予想外の展開で・・・(笑)
本を読んだので楽しみにしていましたが、原作の方は、切腹の直前から時間をさかのぼる、すっきりしたつくりなのに対して、映画の方は時代があっちこっちしていて、わかりにくかったんじゃないかと思います。(ちょっと寝てしまったのであまり偉そうにいえませんが…。)
画面が暗い色調で、カメラワークも今一つな感じがして、どこをとってもきれいな風景、という映画ならよかったのに…と思いながら見ていましたが、最後で予想外のがっかりがありました。
原作では、切腹の後、妻の宗恩が緑の香合を割るところが胸をすくシーンだったのですが、映画の中では割らずに終わってしまいました。…なんてこと!
市川海老蔵も、中谷美紀も悪くないと思いましたが、それにしても、市川團十郎さんの場面はぐっと引きつけられるのでした。
素晴らしかった。
素晴らしい俳優と素晴らしい演技が素晴らしかった。淡々と時が流れて行く中でいつの間にか吸い込まれて行くように利休のとりこになってました。
さすが海老蔵。一つ一つの動作が実に美しく繊細で素晴らしかった。これは本当に彼にしか演じることが出来なかったであろうと思う。中谷美紀も素晴らしい。代役は誰にもできないだろう。
一人の人を利休は愛し続け、宗恩は利休を尊敬し愛し続ける。二人の思いは交わっているようで最後まで交わるはことのなかったのかな。宗恩の悲しさ、悔しさが溢れるラストシーンではほろっとしました。
美というものは五感で感じる具象だけではないのです
石田三成がどうして利休を危険視するのか、そして秀吉は利休に切腹を命じた苛立ちの内面が分かりにくく、この点は断片的に描きすぎたかもしれません。しかし、美術面でのこだわりは素晴らしく、映像にずっしりとした重みを感じます。
演技面も主演の海老蔵が各年代の利休をきっちり演じ分けるなど、それぞれの出演者が熱演。骨太の時代絵巻に仕上がっていました。
しかし、自分が数多くの邦画作品の中でも5本の指に入れている勅使河原宏監督の『利休』に比べて、本作の「美」の世界観は遠く及びません。『利休』では、わずか一輪の朝顔を利休が秀吉に活けて見せ、自らの不退の決意と「美は揺るがない」という信念を画面で見せつけました。それに比べて田中光敏監督は、単なる美しさと捉えているのに過ぎないのです。
利休は、当時の名物を尊ぶ既成の価値観を否定して、侘び茶を確立しました。その辺のところにも絢爛さを愛でた秀吉との対立があったのかもしれません。その背景には、快楽や名声をうたたかの刹那とする仏教感が色濃くあったのでしょう。「美は揺るがない」という利休が悟り得た境地とは、生死を超えて貫いて存在する仏法真理の普遍さ、そのいのちの輝きの素晴らしさであったものと思われます。
その象徴として創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としていたのでした。
勅使河原監督作品には、そりが色濃く反映されていたのに比べて、本作では利休が悟り得た世界観を感じ取ることはできませんでした。だから秀吉に侘びを入れようとせず、死に急ぐようにも見れる利休の気持ちが掴めなかったのです。
利休は、枯淡の茶聖ではなく、実は情熱の人だったという大胆な発想の山本兼一の直木賞受賞作が原作の本作。その利休にも、かつて異国・高麗からさらわれてきたクララという女と一緒に逃げようとした秘密があったこと。その情熱的に恋したことは悲劇に終わるのだけど、その体験は諸行に有情有りと利休のこころを潤し、彼独特の洗練された美意識の基になっていくというのが原作ならではの世界観を生み出しています。ところが本作では、肝心の利休の恋というテーマが、時間配分の関係からか、ついでのエピソードのように押しやられていて、晩年の利休にリンクしていないのです。
それでも、色町に入り浸り、色恋に目醒めた青春時代。茶の師となる武野紹鴎の指導を受け、宗易の名で茶の道に邁進した修業時代、そして茶道を完成し、何者にも動じない茶聖と崇められる存在となった姿。その三つの異なる利休像を完全に自分のものとして、存在感を示した海老蔵の演技が素晴らしかったです。
特に海老蔵の父・団十郎が演じた武野紹鴎との体面シーンが印象的でか。死期を悟った団十郎が、演技を超えて、愛弟子としての海老蔵に、今後の芸の道を言い含めるかのような重い語り口で諄々と説く姿に、涙が溢れてきました。最初にして最後の父子共演映画となったこのシーン。もっともっと見たかったです。
加えて、海老蔵を引き立てるのが、利休を陰で支える妻、宗恩役の中谷美紀の受けの演技。夫の死を静かに受けとめる姿には、非情な最後へ至る悲劇に、一輪の暖かみをもたらせてくれました。
本作一番の見どころは、秀吉の威光を天下に示した北野大茶会を完全再現してことでしょう。北野の森に若党、町人、百姓を問わず居並ぶ大群衆。北野天満宮の拝殿に設えられた黄金の茶室や待庵などの茶室を本物と見まがうばかりに作りだした美術が素晴らしいのです。
また小道具も執念を感じるほど本物に拘っています。実際に利休が使用したという「長次郎作 黒楽茶碗 銘 万代屋黒(もずやぐろ) 利休所持 万代屋宗安伝来」(楽美術館所有)などの茶器の大名物を使って、茶をたてるシーンで使われているので、茶道を心得ている人がご覧になれば、目を丸くして驚かれるでしょう。その他、千利休の木像が置かれた大徳寺の国重要文化財、金毛閣や、一般公開されていない裏千家の今日庵などで撮影するなどの入念さです。
さらに、色鮮やかな衣装、繊細な工作が設えれてある小道具などを見るにつけ、まだまだ邦画には、職人の技が受け継がれているなと心強く感じました。
利休に何をたずねたいのか?
『利休にたずねよ』を観ましたが、利休にたずねたい事なんて、出て来ませんでした。
この映画の原作を読んでいませんが、推理小説なんでしょうか?
何をたずねたいかを推理させる小説?
それにしても、市川海老蔵さんは、いつも良い演技をされています。
私生活は知りませんが、映画に私生活は関係ありません。
映画やテレビ、舞台のために生まれて来たような人です。
そこは、美のために生まれて来たような利休と共通しています。
後半、利休の若い頃の恋愛話が出て来たけど、実話なんでしょうか?
ロマンチックです。
千利休って、ただの枯れた人かと思っていたけど、見方が変わって来ます。
最後に、千利休が大成した茶道が、今の時代、あまり見向きもされないのが嘆かわしいです。
大河ドラマなんかでも、もっと千利休を取り上げて欲しいものです。
それと、千利休が書いて豊臣秀吉に渡した紙なんか、今年の漢字みたいです。
千利休に、今年の漢字をたずねたら、
『今』でしょ。
あるいは、『裏、裏、裏』でしょうか?
表なし。(寒い〜)
追伸
たぶん、利休は心眼を持っているから、なんでも利休にたずねよ!という意味なんでしょう。
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