「『さよなら渓谷』を観て“呪い”とどう向き合うかについて考えた話」さよなら渓谷 ウシダトモユキさんの映画レビュー(感想・評価)
『さよなら渓谷』を観て“呪い”とどう向き合うかについて考えた話
決して愉快な話じゃなく、泣けるでなく、生きるチカラが湧いてくるお話でもないですよ。
それは間違いないんですけども、なんだか観終わった後に、いっぱい宿題を出されたような気分になりました。それを自分なりに答え合わせするために、これから何度か観返さなきゃいけないんだろうなと思います。もうちょっと仕事のヤマ場を越えてアタマに余裕ができたら、ちゃんと考えて、改めて感想書きたいなぁと思うんですけども。
僕はこの映画、“呪い”とどう向き合うかのお話だと思いました。
“呪い”っていうと、オカルトが思い浮かんじゃいますけど、そういう怨念とか恨みとかが、超常現象的に誰かに降りかかるというものじゃあないんです。
この映画での“呪い”とは、「レイプという事実」のことですね。
「レイプという事件」は、法的な処罰とか補償で決着はつけられるものなんですけど、「レイプという事実」は被害者でも、加害者でも、法律でも、誰かの死をもってしても、どうしようもなく消えずにつきまといます。被害者が許す・許さない、加害者が償う・償わないにとどまらず、当事者が関わる人たちにも降りかかるものとして、苦悩や偏見や、時には暴力に姿を変えながら拡散していきます。その“どうしようもなさ”と戦うのか、受け入れるのか、放り出すのか。そういうことを考えさせられた映画でした。
レイプをしたこともない、されたこともない僕には、「あぁ、被害者はかわいそうだね。加害者はヒドいね。」以外の立場を許されないような気もしますし、もっと言えば「被害者をかわいそうって思うのは、レイプ被害者を見下しているんじゃないか」って思っちゃう側面もあって、思考停止しちゃいそうなんですけど、そんなんだったらこの映画を観る意味がないし、この映画が作られる意義もなくなっちゃいますよね。
だからもっと普遍的な意味で“呪い”が自分に振りかかったとき、どう向き合うか。それを考えるキッカケになる「良薬は口に苦し系」の映画だったと思います。
僕にとって秀逸だったのは、ラストシーン。
大森南朋が大西信満に、ある質問をします。その回答が観客に委ねられるようなカタチで映画は終わるんですけど、「A or B ?」で考えたら負けだと思いました。
「はぁ?てめぇ、わかったような顔して全然わかってねぇな!」
と、僕が大西信満だったら答えるような気がします。
「A or B ?」って質問すること自体、質問されることそのものが、“呪い”なんだなぁとゾッとしましたよ。