「死ぬことが前提の新たなループもの」オール・ユー・ニード・イズ・キル REXさんの映画レビュー(感想・評価)
死ぬことが前提の新たなループもの
原作を読んでから、映画を観ました。
原作は素人の若者たちがやむなく戦わざるを得ないぐらい人材が欠乏している状況下で、ループに巻き込まれる主人公の至極個人的な葛藤を描く青春モノですが、映画はトム主演で年齢層が高く、スケールの大きいプロ軍人モノとしての印象を受けます。
勿論、トムは最初よわっちいですが。
ループを信じない上官との軋轢や、ギタイを戦略的に駆逐しようとする映画のシナリオに対して、小説の方はたった一人の理解者を失う若者の切なさが強調されています。
どちらも別物として楽しめます。
ループするたびに「戦場のビッチ」ことリタを好きになる主人公、という展開は共通してますが、映画では台詞にせず早いカットで表現するのがうまい。
トムのリタを見つめる目がどんどんシリアスになってくる。彼にリタを守りたいという感情が生まれる瞬間は、とても惹き付けられるシーンです。
青臭いライトノベル的要素は削られているものの、原作へのオマージュはそこここにあり、例えば原作で心痛と疲労のため一人で居る事が好きなリタは、映画でも孤独を好み一人高度な訓練を行っている。最初のシーンで原作の「前支え」的なポーズをとっているのは、ファンサービスでしょう。
かなり重要な珈琲のシーンはサラリと描かれていますが。
原作のリタは超細身なのに巨大なバトルアクスを振り回すが、それはあまりにアニメ的なので、カッターナイフのような剣になっていたり、ボディスーツが真っ赤から赤いペイントが雑に塗られているだけなど、より現実的に転換されている。
また、エンディングも違いますが、私はどちらもいいと思いました。
映画版はご都合主義という意見もありますが、リタへの恋心をケイジだけが抱えているという点では、映画版のケイジも孤独であることには違いない。
(宇宙にはたくさんのギタイがまだ漂っているとはいうものの)とりあえず地球のギタイを掃討したというからには、リタとケイジは戦闘仲間にはもうなれないわけだし、あれほどの戦いの濃密な時間と信頼関係は失ってしまったのだから。
同胞を失った悲しみを一人抱える原作のケイジも、秘密を抱えつつも前向きな余韻を残す映画版もどちらも好きです。
>>あえて、二つの媒体で異なる点や疑問を書くことにします。
◆原作
・ケイジがたまたま第一戦でギタイ・サーバを倒したあとは、リタが代わりに(意図せずに)サーバを倒していたため、彼は二回目以降はサーバを倒していないもののループの対象となってしまった…というのが、やや出来すぎな気もするが、しようがないのかもしれない。
・もし、ケイジの死の後に長いことサーバが生き延びていたとしたら、ケイジの生死に関わらず時間は進んでいくことになる。にも関わらず、対象者はケイジのままなのだろうか。もう一度リタになることはないのか。
・もし、サーバがたくさん存在し、ケイジ以外の人が倒した場合、ループ対象は複数になるのだろうか、それとも最新の討伐者に移行するのだろうか。
・原作の上官フェレウはブラジル人なのですが、日本人が無理して借り物の外国人風のセリフを話させているようで違和感。ケンジがリタとの闘いの後で、先輩のヨナバルが文句を言うのもなんだか不自然。
◆映画
・原作の設定に限界を感じたのか、αとΩがあり、全てのギタイはΩの一部という設定に。αの血には人類抹殺を可能にするため、未来から過去へと情報を伝送する役割がある。ケイジはその血を浴びたため、ループ機能を得られるが、浴びただけで…ってのもなかなか無理矢理(笑)
・いかにもハリウッドらしい終わり方でしたが、次回作を匂わせるような終わり方ではないのは好感。ケイジが最期に再びαの血を浴びたために、ループ機能を身につけ過去に戻るものの、ギタイ(Ω)自体は殺しているため、ギタイが滅びた過去になっています。ただ、ケイジは単独でそのパワーを得ているため、彼がこの先死んだら、また過去に戻るのかどうかという疑問も残ります。
面白いのは、ギタイのビジュアルが3媒体いずれも違うこと。
原作では「溺死したカエル」と表現されているが、コミックは深海からきたことに着想を得たのかウニっぽい。
映画では、どうもエイリアンの呪縛から逃れらなれないようなビジュアルで、触手が多いヒトデのようだった。
さらにαはライオンがベースのような悪魔のような顔。西洋と東洋の思い描く化け物の差が楽しめます。