「差別意識について」ぼっちゃん ニックルさんの映画レビュー(感想・評価)
差別意識について
容姿にもコミュニケーションにも難あり疎外感を生まれてこのかた感じてきた、と自分で思い込んでいるような人間の頭の中がどうなっているのか、もちろん一人一人の話でしかないし、自分以外なんて想像するしかない。本当は誰にも分かりようがない事に一つの仮説を投げかけるような映画。インターネットへの呟きは非常にリアリティがある。差別される側の複雑さというのは、自分と同じような人間にも同族嫌悪を持つという所で、この描写もリアル(何をもってリアルと言うのか、普段意識しないようなその境界すら揺らがせる強さがある)。差別される側だってわざわざ自分や他人を差別している。
疑問なのは、差別というものを差別する側の意識として明確に悪意として表現している序盤。
この時代であれば、そういう事がないとは言わないが似た者同士で固まるという穏やかなコミュニティのあり方が存在するのではないか、無関心社会への移り変わりの時期だったのではないかと感じた。主人公が受ける差別が(そんなに悪い奴ではないように見える故もあり)若干作為的に見える。
差別意識というのはもっと人の無意識のなかにある、差別している側も差別していると思ってないような事が当事者には差別に感じられるという事が痛々しいのではないだろうか。経験的にも、自分と違うものを異化したことで人を傷つけた事はあるし、無自覚にも無数にあるだろう。開き直るわけでは決してないがそれは気をつけても起こってしまう事だと思う。
逆に差別されたこともあるが自戒込めて、被害者意識というものがとかく気持ちが悪いのは、そのような人間の無自覚の仕方の無さに想いを馳せる想像力を人から奪うことだ。人は人を憎むことをやめられないのかも知れないが、憎しみはなにも生まない。
想像力を奪われた人間は醜い。孤独を受け入れられない人間も醜い。仕方がない事だけど、自分のためにもそんなふうに自分を終わらせるのは損でしかない。頭ではそう思っても、全然できない事ばかりだ。
そんな自意識の甘さ故の痛々しさにまでこの映画がしっかりと到達できていたのかどうか、一見ではハッキリとは分からなかった。分かりようのないものに対して分かろうとして、分からなくてという到達しようという作り手の誠実さはとても感じられた。
賛否あろうがこんな風に観客を怒らせる映画が存在するべきだと思う。人は自分の悲しみしか感じる事は出来ない。だから他人の悲しみは想像するしかない。誰かだって誰かの子供なんだよ、と言っても通じない時がある。そんな彼でさえ誰かの子供である。けれど、ラストシーンの後に殺戮が起きるのなら自分はこの映画の主人公の事を赦せないと思う。