許されざる者 : インタビュー
日本映画界の最前線を疾走し続ける佐藤浩市が「許されざる者」を述懐
50代を俳優としていかに生きるか。佐藤浩市は昨年、その指針となるべき3本の映画と出合った。「草原の椅子」、「許されざる者」、「清須会議」である。いずれも印象深い役どころだが、中でもクリント・イーストウッド監督・主演の名作西部劇を同時代の日本に置き換えた「許されざる者」は鮮烈だった。明治維新後、蝦夷の小さな町を暴力で牛耳る支配者として君臨。特に本格的な共演は初となる同世代の渡辺謙との対じは、映画的興奮が凝縮された迫力、緊張感に満ちていた。日本映画界のけん引者の1人として、その深みは増すばかりだ。(取材・文/鈴木元、写真/堀弥生)
「許されざる者」で佐藤が演じたのは、鷲路町の絶対的支配者である初代町長兼警察署長・大石一蔵。イーストウッド版でいえば、アカデミー賞助演男優賞を受賞したジーン・ハックマンの役回りだ。当然、1992年の公開当時に見ているが、佐藤の出演を熱望した李相日監督の脚本を読んだ段階からオリジナルの日本映画としてとらえていた。
「ちょうどその時代をシフトすると日本は明治維新で、薩摩が軍人、長州が警察という分かれ方をするというマッチングが面白いし、アイヌの問題も出てくると歴史が深い分、日本の方が背景的に面白いんじゃないかと思った。李監督の脚本もオリジナリティにあふれて、すごく魂が入っていた。楽しみになりましたね」
それでも、脚本の枠だけにとどまらないのがベテランらしいところ。撮影前に李監督と議論を重ね、映画に登場するまでの一蔵の人生、背景を練り上げていった。
「単純に脚本に書かれていることだけでは、役者は面白くない。いくばくかの自分の経験なりニュアンスが入ってこなければ、ハイブリッドにならないから。だから、一蔵は下級武士として、蝦夷地に行く前はたぶん九州の田舎で女房、子どもがいて、そこにいては知れているような男が、初めて城を持った。そこで自分の町を守る異常な欲というものが、後天的に暴力というものになっていく。そういうつくり方で監督とは合意していました」
クランクイン直前まで主演作「草原の椅子」のパキスタン・フンザでのロケに臨んでいたが、「経験上、そういう切り替えは早くなっていく」とひきずることもなく現場入り。北海道・上川町の広大なオープンセットに立った時は、山形・庄内映画村で撮影された「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」(2007)を思い出したという。
「オープンですべてセットで造っているって、なんかいいよね。そこに置かれると、やはり男の子ですよ。高揚感は当然あるし、そこに身を置いて感じることは大切。大雪山を見て、決して住みやすい所ではない気候で、そこに生きたことをリアルタイムで感じてやれるというのはありました」
一蔵は一切の反逆を許さない専制君主。己の力を誇示するため、“我が城”を守るため、さまざまな形で暴力を振るう。町で女郎が顔を切りつけられる事件が起き、同僚たちが犯人である開拓民の首に賞金を懸けたことで、一層警戒を強めるのもそのためだ。それにしても、國村隼や柄本明ら先輩を痛めつけるのは心苦しいのではと余計な心配もしてしまう。
「いやあ、きついっすよ。実際、國村さんには1発入っちゃったし、柄本さんを裸にして叩くところも、竹刀が揺れるのが嫌だというので芯(しん)が入ったのでやってくれと言われた。そりゃあ、ずれたらいっちゃうわけですよ」
その洗礼を受ける1人が、主演の渡辺だ。かつて「人斬り十兵衛」と恐れられた幕府軍の釜田十兵衛。2人の初の邂逅(かいこう)は、十兵衛の武勇伝を知っていた一蔵が徹底的にその力を見せつける。すさまじい迫力の1シーンだが、そこで起きたハプニングを苦笑いで振り返る。
「本当に当ててくれないかと言われたので、それは僕じゃなく謙さんに聞いてくださいって。そりゃあ役者は言われれば『いいですよ』って言うしかないからね。だから、(脚本では)平手で3発のところを4連発でやった。普通にやっても監督は絶対にOKを出さないと思ったから。そうしたら1発目で、(渡辺が)ちょっと意識が飛び掛かったと思ったんですよ。首がカクンっていっちゃって。僕の中でOKかなと思ったら、監督がもう1回って。さすがにプロデューサーが飛んできて止めましたよ」
李監督の粘り強い演出の裏返しともいえるが、佐藤自身、脚本の時点で抱いていた暴力に対するイメージが、撮影ではより強くなっていると感じたという。その部分は完成した作品を見て、合点がいったそうだ。
「異様なまでに暴力へのシフトが大きかったんですよ。でも、作品を見るといろいろな意味でソフトになった部分もあるし、希望も若干入っている。こいつ(一蔵)がなぜここまで暴力に執着しているのかと分かったのは、結局、すべてのものに許されないものを内包しながら生きていくことで、その接点としての暴力というものが案外一番ソフトだったりするんです。そういう部分が強く出てこないと、こちらが浮き立ってこないという、そんな思いも監督にあったんじゃないかのかなって感じました」
渡辺とは、NHK大河ドラマ「炎立つ」(1994)で“ニアミス”はあったが、意外にも初共演。1歳年上だが、共に映画を軸にキャリアを積んできただけに、相応の感慨があった。
「同世代でまだ見ぬ唯一の存在なのかな。僕はこの日本という国の中でやってきて、向こうは大海原(海外)に単身行ったわけですけれど、それが50いくつで出会うわけですから楽しみではあった。ただ、こっちだって負けちゃいられないって思いがあって、そう思えることもどんどん少なくなっている。よし、1戦始めますかっていう気分が僕の中にはありました」
それにしても昨年後半からは、ほぼ全編に出演している成島出監督の「草原の椅子」に始まり、「許されざる者」、そして三谷幸喜監督の「清須会議」と休む間もなく、まさに映画漬けだった。年が明けてからも4カ国でロケを行った阪本順治監督の「人類資金」に主演と、本人は「50過ぎの役者があまりいないので」と謙そんするが、映画が佐藤を求めている証左だろう。
「僕の中では去年の3本は、自分のキャリアとしての50代がなんとなく決まるのかなあと思っていた。その後、阪本組も入って、自分が映画の中で生きていきたいと思っている時にふさわしい映画がきたので、非常に駆け抜けがいのある1年間でした。そういう大人の役がまだあるということも含めて恵まれているとは思うけれど、結局、映画というものにしがみついている自分が、この1年2年、より深く関わっていられるのはありがたいですね」
「人類資金」撮了後の4月14日に、父の三國連太郎さんが死去。最期はみとれなかったが、同作のニューヨーク・ロケに行く直前の4月初旬、たまたま父の病室を訪れたのも映画が引き寄せた運命だと感じている。
「普段は(見舞おうと)思わないしほとんど会いに行かないんだけれど、たまたま親父の病院の方にいて、ちょっと顔でも見てこようかなと思って、なんとなく1時間くらい。その時はいつもより意識がはっきりしていて、ちょっと話もできた。それでニューヨークから帰ってきてああなったので、言い方を変えれば後悔がない。それもこれも映画のおかげだなって。こじつけちゃえばね」
7月の三國さんのお別れの会では、「自分の好きな芝居をやらせてもらえるのは、三國連太郎がいたからこそ」と語った佐藤。ここ数年の精力的な活躍は目覚ましい限りだが、「まだ走れますね」とますます意気軒高。50代は言うに及ばず、日本映画の最前線でさらに深化するであろう佐藤の役者道を追い続けていきたい。