「溝口監督作品の中でも重要な意味と意義のある作品」祇園の姉妹(1936) あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
溝口監督作品の中でも重要な意味と意義のある作品
メロドラマを排しリアリズムに徹底しています
1936年、昭和11年
当時としては革新的な映画ではなかったかと思います
リアリズム映画と名高い内田吐夢監督の土よりも3年は早い
イタリアのネオリアリズモは戦後のこと
フランス映画の巴里の屋根の下などの詩的レアリズムの作品はリアリズムの性質がまるで違う
ラストシーンの妹の激白はフェミニズムの主張そのものでこれも画期的なことではなかったかと思います
姉は男にとって都合の良い理想の女性
人間扱いされない男性の玩具として扱われる存在
古い因習に疑問を持たずに生きていく普通の人間でもあります
一方、妹は人間としての尊厳を得ようとしている存在です
だから逆に男性を利用するのです
近代的な男女平等の思想の持ち主で、古い因習を打破するのだと固く誓っています
冒頭のシュミーズ姿で、男性がいても平気で登場してくるのは、この人物は男女は性的に平等であると主張する女性だという演出意図だと思います
この姉妹を通して祇園の芸者のおかれた現実の境遇をえぐり出していきます
それは同時に日本の女性の置かれた姿でもあるのです
これは時代を考えれば、恐らく形を変えた社会主義思想の表出だったのだろうと思います
当時は社会主義思想は危険思想として取り締まりの対象でありました
その思想の内のフェミニズムだけに焦点を当てて観客の意識に近代的な考えの芽を植え付けるのだという狙いだったと思います
当時は治安維持法により共産党などの社会主義思想の団体は壊滅して、その適用範囲がさらに拡大されて、芸術団体も摘発対象になっていった、そんな時代の背景があったのです
妹が報復を受けるのは、社会主義者に対する密告と特高警察の予備拘禁や拷問を暗示させているのだとおもいます
溝口監督は姉妹それぞれの役割を明確にして対比させることで、私達にそこのところを大衆に自然に考えさせようとしているのです
それは成功していると言えると思います
溝口監督はワンシーンワンカットの手法が盛んに取り上げられますが、それよりもこの姉妹や登場人物達が演じる人間の本質をぶつけ合うところにこそ溝口監督のリアリズムがあるのではないでしょうか
溝口監督の躍進は本作からこそ始まったと思います
大変重要な意味を持つ傑作だと思います
聴いていて何の違和感もなくすーっと入ってくる京都弁は、流石に現代ではもっと薄まってしまっています
ですが、84年前の四条通りの光景が現在とさして変わらないことには驚愕しました
祇園の路地にある馴染みのお店に湯葉湯豆腐食べに行きたくなりました