祇園の姉妹(1936)のレビュー・感想・評価
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「浪華悲歌」と並ぶ溝口映画の双璧‼️
日本映画が世界に誇る名匠・溝口健二監督の「浪華悲歌」と並ぶ最高作‼️「浪華悲歌」同様、溝口監督のヒロインへの容赦ない演出が光っています‼️梅吉とおもちゃは祇園に出ている芸者姉妹。梅吉は二号さん、古いしきたりを守る義理と人情に生きる女で、ダンナさんが落ちぶれてもなお尽くす古いタイプ‼️おもちゃは女学校出のドライな現代娘で、当時としては割りきった新しいタイプの女性‼️対照的な二人が、どちらも男にもてあそばれて惨めに捨てられていくという厳しい女性の現実を、冷徹に見据えた傑作です‼️「浪華悲歌」で完璧な関西弁、今作で完璧な京都弁を披露したベルちゃん‼️素晴らしい‼️「浪華悲歌」と対局を成すラストのおもちゃの絶叫‼️「商売上手にやったら腐ったやっちゃ、と言われるし、あてらはどうしたらええのや。なんで芸者みたいな商売があるんや。こんなもん、なかったらええ」‼️
私の中での、溝口映画ナンバーワン作品に…
溝口映画について、これまで
「雨月物語」「山椒大夫」「近松物語」
しか観ていなかったが、
このサイトでの皆さんのレビューから、
これら以前の作品の高評価を知り、
昨今、「西鶴一代女」を経て、
戦前の「残菊物語」、
そしてこの作品鑑賞に至った。
そんな中、1956年版を
溝口監督作品と間違えて先に観てしまい、
姉の娘が登場しない違いがあるものの、
基本的な展開は知ったままの鑑賞に。
テーマには不釣り合いに感じさせられる
冒頭の軽快な音楽には驚かされたが、
なるほど、これが皆さんが絶賛され、
キネマ旬報でもベストワンに選ばれた作品
かと納得の鑑賞となった。
そして、更に、私が鑑賞出来た溝口映画6作品
の中でもナンバー1の位置付けとなった。
また、どうしても先に観てしまった
1956年版と比べてしまうが、
比較するのもはばかれる程の
長回し等の撮影技術のレベルの差は元より、
登場人物のひとり一人の性格描写が
しっかりしていることによるテーマ性への
優劣は比較するまでもなかった。
姉は保守的で古風な性格、
初めて見る10代姿に驚かされる山田五十鈴
の妹は男を手玉にたくましく生きる、
ある意味、進歩的でジェンダー平等意識を
先取りしたような人間像だが、
共に芸妓の世界の束縛からは脱却出来ずに、
好まざるを得ない結末を迎える。
そのクリヤーな首尾一貫した演出が
見事に感じた。
今回、観ることが出来たのは69分の短縮版、
果たして95分のオリジナル版が
どんな作品だったのか、
確認の出来ない現在、
映画ファンとしては痛恨の極みに感じる
今回の鑑賞でもあった。
祇園という「廓」(場所)で両極端な活き方を選ぶ姉妹の姿を通して溝口監督が描きたかったもの。
①鑑賞後にWikipediaで調べたら祇園でも格下の祇園乙部を舞台にしているという。戦前の祇園に格上・格下が有ることも知らなかったが、道理で「祇園」という言葉から想起される華やかさが無いなぁ、と感じながら観ていたのが府に落ちた。②同じく、祇園・花街・芸妓という安易な連想からもっとしっとりとした話をイメージしていたら、いやに軽快な音楽で始まり、騒々しさから家を壊しているのかと思いきやカメラが右に動いていくと破産した商家の蔵に有ったと思う木箱からお宝を出して競っているのが分かってくる冒頭のカメラワーク。それから、潰れた商家の主人が細君の泣き言に嫌気が差して、昔贔屓にしていた芸妓なところに転がりこむまでの見事な導入部。③
最初のカメラワークと最後の山本五十鈴の男どもに対する怒りが印象的
オリジナルの間尺は90分超も、現在残っていないとのことで、ショッキング。残存する69分んものを鑑賞。最初のカメラが平行移動していき、お店の全貌と、破産してから値打ち品を競売していることを示す長回しは、やはり印象的。
芸妓姉妹の妹山田五十鈴が地味なほぼ素顔で登場し、終わりの方では日本髪のカツラ及び化粧でプロとしての顔に変身する様は魅せる。姉とは対照的に、男達を手玉に取って上手くやって行くんだとの上昇志向のキャラクター設定は、今見ても魅力的。結局、騙した男に復讐されてしまい、社会、そして男どもへの恨みつらみを吠え、それが自分たち庶民の不公平で理不尽な日本社会への怒りを表している様で、共感から胸を打つ。
「西鶴一代女」と並ぶ溝口映画の最高峰
男と女の対立を可笑しく厳しく突き詰めた脚本が見事。色街通いの多かった溝口監督の原案を依田義隆が無駄のない物語に纏め、テーマが浮き出るドラマとしての完結性。祇園の風情を見事に捉えたカメラワーク。山田五十鈴演じる芸妓”おもちゃ”のキャラクターの魅力と梅村蓉子の演技力。二つの女の立場、個性の違いを鮮やかに見せての、ラストの締めくくり。
オリジナルより20分近くの短縮版ではあるが、その不備を感じることのない圧倒的な溝口監督の演出力。10代最後に出合えて日本映画に開眼させてくれた、大切な日本映画の至宝。
溝口監督作品の中でも重要な意味と意義のある作品
メロドラマを排しリアリズムに徹底しています
1936年、昭和11年
当時としては革新的な映画ではなかったかと思います
リアリズム映画と名高い内田吐夢監督の土よりも3年は早い
イタリアのネオリアリズモは戦後のこと
フランス映画の巴里の屋根の下などの詩的レアリズムの作品はリアリズムの性質がまるで違う
ラストシーンの妹の激白はフェミニズムの主張そのものでこれも画期的なことではなかったかと思います
姉は男にとって都合の良い理想の女性
人間扱いされない男性の玩具として扱われる存在
古い因習に疑問を持たずに生きていく普通の人間でもあります
一方、妹は人間としての尊厳を得ようとしている存在です
だから逆に男性を利用するのです
近代的な男女平等の思想の持ち主で、古い因習を打破するのだと固く誓っています
冒頭のシュミーズ姿で、男性がいても平気で登場してくるのは、この人物は男女は性的に平等であると主張する女性だという演出意図だと思います
この姉妹を通して祇園の芸者のおかれた現実の境遇をえぐり出していきます
それは同時に日本の女性の置かれた姿でもあるのです
これは時代を考えれば、恐らく形を変えた社会主義思想の表出だったのだろうと思います
当時は社会主義思想は危険思想として取り締まりの対象でありました
その思想の内のフェミニズムだけに焦点を当てて観客の意識に近代的な考えの芽を植え付けるのだという狙いだったと思います
当時は治安維持法により共産党などの社会主義思想の団体は壊滅して、その適用範囲がさらに拡大されて、芸術団体も摘発対象になっていった、そんな時代の背景があったのです
妹が報復を受けるのは、社会主義者に対する密告と特高警察の予備拘禁や拷問を暗示させているのだとおもいます
溝口監督は姉妹それぞれの役割を明確にして対比させることで、私達にそこのところを大衆に自然に考えさせようとしているのです
それは成功していると言えると思います
溝口監督はワンシーンワンカットの手法が盛んに取り上げられますが、それよりもこの姉妹や登場人物達が演じる人間の本質をぶつけ合うところにこそ溝口監督のリアリズムがあるのではないでしょうか
溝口監督の躍進は本作からこそ始まったと思います
大変重要な意味を持つ傑作だと思います
聴いていて何の違和感もなくすーっと入ってくる京都弁は、流石に現代ではもっと薄まってしまっています
ですが、84年前の四条通りの光景が現在とさして変わらないことには驚愕しました
祇園の路地にある馴染みのお店に湯葉湯豆腐食べに行きたくなりました
歴史的価値あり
トーキーとなったばかりの頃の映画のため、音声が聞きづらいのですが、溝口作品の最高峰と誉れの高い映画だ。
しかし何だろう。ストーリーとしては面白くもなんともないけど、細かな会話がすごく自然でリアルだ。金額なんかが多く登場してるけど、現在の価値に換算すると100万単位の金が動く祇園の世界だけあって、庶民感覚が通用しない。
戦前の小津と比べると、動きや台詞に躍動感があるし、現在作られる映画の基礎として考えると歴史的な価値はあるのだろう。
「芸子でっせ。ほんまのことばかり言うとられません」などと厳しい現実を目の当たりにしてしまったらやだなぁ。
今度こそ溝口版
先日、野村浩将によるリメイク版を間違ってレンタルしたが、今度こそオリジナルの溝口健二版「祇園の姉妹」である。
オリジナル版はやはり溝口特有のワンシーン・ワンカットで始まる。これが圧巻。
家財が無造作に置かれた屋内を移動カメラがゆっくりと映していく。男たちの掛け声のほうへカメラが近づいていくと、これらの家財を競りにかけているではないか。
その競売の様子を他人事のように眺める屋敷の主人たち。
こうした奥行きのある構図で、物語の世界観を提示することがこの監督の得意技なのだと思う。
女郎の誠と玉子の四角 あれば晦日(みそか)に月も出る
なんていう歌詞の長唄がある。要するにそんなものはこの世の中に無いという意味だ。嘘ついてなんぼ、そうでなければ生きていけない。芸妓なんていうものがなんでこの世の中にあるんだ、なくなってしまえばいいんだ!大怪我をして病院のベッドに横たわりながら、男と戦うことを私は決して辞めない、というおもちゃ(山田五十鈴)の台詞はグサリと刺さる。彼女の啖呵も言葉も叫びもすべて今でも真実だ。19歳の山田五十鈴の演技は「浪華悲歌」同様、リアルで素晴らしい。(2022.5.7.リニューアルした新文芸座にて再度の鑑賞)
おまけ
昔の映画を見ると、ビールでもお酒でも相手につぐとき女性は必ず、逆手にした片手(右手)で瓶なりお銚子を持ってる。空いている左手は着物の袂に添えている時もあればそうでない時もある。両手でつぐより姿がいい。でも一番いいのは自分の酒は自分でつぐことだな。
暗い京都の街
【評価不能】
本作は、キネマ旬報ベストテンの第1位にランクインしたこともあるという邦画史上の金字塔なのですが、偽らずに言えば、自分にはまだその魅力が理解できませんでした。少し調べたところでは二人の批評家が、山田五十鈴の女優としての才能が最もよく発揮されたものとしてこの作品を評価していました。私が全く気付かなかった点です。超一流の役者を観ても素通りしてしまう私には、まだまだ映画の鑑識眼が足りないみたいです。もう少し色々な映画を観てから出直してきたいと思いました。
作品内容について言えば、まず、山田五十鈴が最初に下着姿で登場するのは、彼女の子供っぽさを強調するためかなという感じがしました。キャミソール姿でも健康的なばかりで女性の色気がない。作中のほとんどの場面で、彼女は女性というよりお嬢さんという感じがしました。
それが終盤になって、姉が出て行ってしまってからは、急に大人びた姿を見せ始めます。客の運転手に呼ばれて身支度をするシーン、島田髷のかつらを被るシーンはとても艶やかでした。しかし、そのように大人になった途端に、男に復讐されて彼女は酷い目に遭います。子供は無責任で結構ですが、大人は責任を取らなければならないということです。
また、女学校上がりとされる山田五十鈴の役柄が、世間体より自己実現を重視するような、独立志向の現代的な女性として描かれる一方で、それとは対照的に、姉の方は世間体を非常に大切にする昔気質な女として描かれていました。女性の取り得る二つの道が彼女たちを通して表されているわけです。
しかし、最終的にはどちらの女性も男によって不幸にされてしまうわけで、だから結局、「どうすればええんや」としか女性は言えません。この作品のテーマは、単純に見れば芸妓への職業批判ですが、芸妓に対する社会的な蔑視という視点が全く描かれていないことから、より広く男尊女卑批判という意味合いを込めたかったのかなと感じました。作品内の美しい京都の町が、あのラストを見た後では、彼女たちを閉じ込める入り組んだ牢獄のように思えてきます。
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