「純粋さは狂気」未知との遭遇 ファイナル・カット版 凰梁の何ちゃって映画評論さんの映画レビュー(感想・評価)
純粋さは狂気
この映画は最後までどうなるかが分からない、正に予測不可能なSFである。その長所を形作ったのはこの作品が登場する以前のSF作品、『宇宙戦争』や『地球の静止する日』のように最後まで宇宙人の正体がはっきりせず、また地球人にとって善か悪かが分からない、鑑賞者に緊張感を与えるような構成であろう。
しかしこの映画が印象深いのはどこまでも主人公が純粋なことである。私はこの作品を学生の時に見たのだが、恐らく幼少期に見た場合とでは感想は違ってくるだろう。何故ならヤングアダルトを含むある程度現実を知った大人たちには主人公の純粋さは狂気にしか見えないからである。
例えば宇宙人が発するメッセージにインスピレーションを受けた主人公は無我夢中で受けたメッセージを形にしようとし、家の中でそのイメージの模型を作ろうとする、そのために材料を得るため家の周りに植えている木を抜き、更には他人の家の金網を奪う、啞然とする住人に対し、主人公は「私は正気です。」と平然と言い放つ。これが狂気以外のなんであろうか。この主人公の好意を素直に手伝おうとしているのは純粋さを持つ子供だけである。結局妻には逃げられ、近所の人からは白い目で見られる。余りの純粋さは狂気として写る現実を示した場面であろう。
だが結局は主人公は正しく宇宙人と対面することが叶う、この妄想に囚われ正気を失ったように見える主人公の認識が正しかったという展開は『ローズマリーの赤ちゃん』と同様である。しかし主人公は幸福のまま映画は幕を閉じるが、家族はどうだろうか?宇宙人の存在は政府によって隠蔽されるかもしれない、そうすれば残された家族には主人公はただ正気を失い姿を消した夫、もしくは父となるだろう。仮に宇宙人が主人公を招き連れていったと認めても家族を捨て、未知なる世界を選んだという事実は消えない。純粋さはスクリーン上のみに成立するものであり、結局独善的なものである善意は大人になる過程で捨てなければならないものである。そう純粋さを否定しない映画から逆説的に捉えてしまう私は主人公を白い目でみる虚しい大人なのだろうか?